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田能村竹田 たのむら ちくでん

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美術人名辞典の解説

田能村竹田

江戸後期の文人画家。豊後生。名は孝憲、字は君彝、別号に九畳仙史・随縁居士等。資性は風流で、文雅を好み高才多能、詩歌・文章・書画・茶香みな通暁していた。絵は谷文晁に学び、明・清画を研究して独自の画境を築く。また交友も多く浦上玉堂上田秋成、殊に頼山陽・岡田半江と親しくする。また弟子に帆足杏雨田能村直入らがいる。天保6年(1835)歿、59才。

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デジタル大辞泉の解説

たのむら‐ちくでん【田能村竹田】

[1777~1835]江戸後期の文人画家。豊後(ぶんご)の人。名は孝憲(たかのり)。字(あざな)は君彝(くんい)。藩政に対する不満から官を辞し、頼山陽浦上玉堂などの文人墨客と交わる。「亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)」に代表される清高淡雅な絵を描く一方、詩文にもすぐれた。画論書に「山中人饒舌」がある。

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百科事典マイペディアの解説

田能村竹田【たのむらちくでん】

江戸後期の南画家。名は孝憲,字は君彝,通称行蔵。豊後竹田の岡藩藩医の家に生まれる。儒学を志し藩校の頭取にまでなったが,藩政改革の建白書を無視され,1813年辞職。
→関連項目大分県立芸術会館岡田米山人

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

田能村竹田 たのむら-ちくでん

1777-1835 江戸時代後期の画家。
安永6年6月10日生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆(いっき)の際,藩政改革の建言がいれられず隠退。絵を谷文晁(ぶんちょう)らにまなび,繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画壇の代表的な作家。頼山陽らと親交をもち,詩や書にもすぐれた。天保(てんぽう)6年8月29日死去。59歳。名は孝憲(たかのり)。字(あざな)は君彝(くんい)。通称は行蔵。作品に「亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)」,画論に「山中人饒舌」。
【格言など】筆を用いて工(たく)みならざるを患(うれ)えず,精神の到らざるを患う(「山中人饒舌」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

田能村竹田

没年:天保6.6.29(1835.7.24)
生年:安永6.6.10(1777.7.14)
江戸後期の南画家。名は孝憲。字は君彝。竹田のほかに田舎児,老画師など多くの号を持つ。豊後国竹田(大分県竹田市)岡藩藩医の次男。藩校由学館に学び,はじめ医業をつぐが好まず,22歳で由学館に出仕して儒員となる。由学館では唐橋君山の下で『豊後国志』の編纂に従うなどして頭取にまで進んだ。27歳で家督を相続,12人扶持を給せられたが,この前後には江戸で,また,幼児期からの眼病治療のため訪れた京都で多くの文人墨客と交流している。このころから隠退の気持ちがあったところへ,文化8,9(1811,12)の両年,藩内に百姓一揆が起こり,これに際して竹田は再度にわたって藩政改革についての建言書を藩に提出したが,いずれも容れられず,ついに同10年辞職願を出して隠退した。以後,詩書画を中心とする生活に入り,郷里と京坂の間をしばしば往来,また郷里近辺や長崎を旅行するなどしてすごした。京坂では,木村蒹葭堂,浦上玉堂・春琴父子,岡田米山人・半江父子,頼山陽ら,当時の文墨界の中心人物らと交流している。 絵は谷文晁の通信教授を受けたりもしたが,20歳のころより郷里の淵野真斎,渡辺蓬島に学び,辞職後は,次第に南宗画へと傾斜していった。柔らかい描線を重ねる竹田の画は,その人柄を反映して気品高く,穏やかであり,日本の南画のなかでは,最も中国の正統的な南宗様式に近い。ことに小品に優れたものがあり,「船窓小戯帖」(東京国立博物館蔵),「亦復一楽帖」(寧楽美術館蔵),「瓶梅図」(個人蔵)などの作品をのこしている。一方,竹田は理論家で,天保6(1835)年には,画論や作品,画家評などを短文百カ条で綴った『山中人饒舌』,師友や弟子などの小伝を収録した『竹田荘師友画録』(1833年脱稿,没後に刊行)があり,いずれも,竹田の幅広い交遊と,絵画に対する高い識見に裏打ちされて,美術史上に独自の位置を占めている。ほかに『填詞図譜』『屠赤瑣瑣録』『竹田荘泡茶訣』など多くの書を著した。<著作>『田能村竹田全集』<参考文献>木崎好尚編『大風流田能村竹田』,京都博物館編『竹田先生画譜』,外狩素心庵編『竹田名蹟大図誌』

(星野鈴)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たのむらちくでん【田能村竹田】

1777‐1835(安永6‐天保6)
江戸後期の文人画家。名は孝憲,字は君彝(くんい),通称行蔵。竹田のほか九畳外史などと号した。豊後国竹田村(現,大分県竹田市)に生まれる。父は碩庵。代々岡藩中川家に仕える藩医の家柄。少年のころより素読,習字を始め,やがて医業を修めるようになり家の職を継ぐ。1798年(寛政10)22歳のとき藩校由学館に出仕,医業を廃して学問専攻を藩侯から命ぜられ,のちには頭取となった。当時由学館総裁であった唐橋君山のもとで《豊後国誌》の編纂が始まるとその御用掛となり,翌年には君山に従って領内を巡視する。

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大辞林 第三版の解説

たのむらちくでん【田能村竹田】

1777~1835) 江戸後期の文人画家。号、九畳仙史・藍水など。豊後の人。谷文晁らに師事。清高な画風の南画を描き、詩もよくした。代表作「亦復一楽帖」「船窓小戯帖」など。画論「山中人饒舌」を著す。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田能村竹田
たのむらちくでん

[生]安永6(1777).6.10. 豊後,竹田
[没]天保6(1835).8.29. 大坂
江戸時代後期の南画家。岡藩藩医碩庵の次男。名は孝憲,字は君彝 (くんい) 。竹田のほか九畳外史などと号する。一度は家業を継いだが,のちに儒者として藩校由学館の頭取になる。文化 10 (1813) 年藩務を辞して以後,長崎や京坂を遊歴しつつ自由な文人生活をおくる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田能村竹田
たのむらちくでん
(1777―1835)

江戸後期の南画家。名は孝憲、字(あざな)は君彝(くんい)、通称を行蔵といい、竹田、九畳外史(くじょうがいし)など多くの号をもつ。豊後(ぶんご)(大分県)竹田の岡藩侍医の家に生まれる。儒学に志し、藩校由学館(ゆうがくかん)に学び、唐橋君山(からはしくんざん)や熊本の高本紫溟(たかもとしめい)、村井琴山(きんざん)、京都の村瀬栲亭(こうてい)にも師事した。藩校の頭取にまで進んだが、1811、12年(文化8、9)の岡藩の大一揆(いっき)に際し二度にわたって藩政改革の建言書を提出するもいれられず、ために13年辞職して、以後文人墨客の徒として自由な生活に入った。画(え)は初め郷里の渡辺蓬島(ほうとう)や淵野真斎(ふちのしんさい)に学び、江戸に出たとき谷文晁(たにぶんちょう)に就いたりもしたが、ほとんど独学のうちに独自の様式を形成していった。辞職後はしばしば京坂地方に遊び、頼山陽(らいさんよう)、篠崎小竹(しのざきしょうちく)、浦上春琴(うらかみしゅんきん)、岡田半江(はんこう)、小石元瑞(こいしげんずい)など当時の京坂文墨界の中心人物と交遊。また、南画家浦上玉堂(ぎょくどう)、岡田米山人(べいさんじん)、青木木米(もくべい)から大いに啓発された。画風は柔らかな描線を神経細かく行き届かせた清雅なもので、江戸時代の南画家のなかではもっとも本格的な南宗様式に近い。『亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)』『船窓小戯帖(せんそうしょうぎじょう)』など小品に優れた作品がある。また、卓抜した画論『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』をはじめ、交友録『竹田荘師友画録(ちくでんそうしゆうがろく)』『填詞図譜(てんしずふ)』など多くの著書を残している。弟子に高橋草坪(そうへい)、帆足杏雨(ほあしきょうう)、田能村直入(ちょくにゅう)がいる。[星野 鈴]
『佐々木剛三著『日本美術絵画全集21 木米/竹田』(1977・集英社)』

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世界大百科事典内の田能村竹田の言及

【詞譜】より

…この書はまた例示の詞が読物としてもよく読まれ,平仄図などは省略して作者別に編集しなおし,さらに箋注を添えたテキストもあるが(《白香詞譜箋》),こうなると実質はもはや詞譜ではない。日本では田能村竹田が《塡詞図譜》を著しているが,これは小令(短編)のみ115調を示している(1805∥文化2)。【村上 哲見】。…

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