きしざわ‐しきさ【岸沢式佐】
- 邦楽家。常磐津節三味線方の家元。
- [ 一 ] 初世。江戸中期、初世常磐津文字太夫の相三味線として活躍。「葱売」「お俊伝兵衛」などを作曲。享保一五~天明三年(一七三〇‐八三)
- [ 二 ] 五世。文政八年(一八二五)五世を襲名。幕末の名人。「角兵衛」「将門」「靫猿」など現存曲の大半を作曲。文化三~慶応二年(一八〇六‐六六)
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岸沢式佐
きしざわしきさ
常磐津節(ときわずぶし)の三味線方岸沢派の家元名。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1730―83)右和左古式部(うわさこしきぶ)の門弟。1768年(明和5)以後、初世常磐津文字太夫(もじたゆう)の相三味線となり、のち2世古式部と改名。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1757―1823)初世の門弟で市治。師の没後ただちに襲名した。1795年(寛政7)3世古式部を襲名。右和佐を名のったこともある。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1774―1829)2世の門弟の2世九蔵が1800年(寛政12)に襲名したが、05年(文化2)に破門され富本節(とみもとぶし)数寄屋藤八(すきやとうはち)を名のっていたが、20年(文政3)に詫(わび)が入れられ、2世右和佐を継いだ。22年に4世、翌年2世が相次いで死去した後の家元相続の争いで4世の実子仲助に紛争の結果敗れ、憤死したとも伝えられる。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1772―1822)2世の門弟文蔵が1807年(文化4)に継いだ。関西巡業中、名古屋で客死。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1806―66)4世の実子、仲助。1825年(文政8)襲名。53年(嘉永6)4世古式部となる。近世の名手とうたわれ、現存名曲の大半を作曲、『宗清(むねきよ)』『靭猿(うつぼざる)』『将門(まさかど)』『乗合船』『どんつく』などがある。後年4世常磐津文字太夫のち常磐津豊後大掾(ぶんごだいじょう)と不和になり、分離独立して「岸沢派」を創設した。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1833―98)5世の実子。1859年(安政6)襲名。92年(明治25)5世古式部となる。父に劣らぬ作曲の名手で、反目していた常磐津派と和解した。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1859―1944)6世の養子。初名2世巳佐吉(みさきち)。1892年(明治25)襲名。一時式佐の名を戻し、改めて8世を名のる。1921年(大正10)6世古式部となる。常磐津林中(りんちゅう)没(1906)後、常磐津派と分離し、1927年(昭和2)ふたたび合同した。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1892―1979)7世の養子。1921年(大正10)襲名。養父に実子があり、27年(昭和2)式佐の名を返上して常磐津勘右衛門と改名し、常磐津正派家元となったために岸沢家では代数に数えないので、9世以降各代が2人存在する場合がある。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1909―62)8世の実子。1931年(昭和6)襲名。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1944― )10世の実子。1973年(昭和48)襲名。
[林喜代弘・守谷幸則]
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岸沢式佐 (きしざわしきさ)
常磐津節三味線方岸沢派家元。初世常磐津文字太夫の三味線方は初世佐々木市蔵であったが,1768年(明和5)市蔵没後後継者争いが起こり,佐々木派は文字太夫と決別,代わって初世岸沢式佐が文字太夫の三味線方となった。(1)初世(1730-83・享保15-天明3) 宮古路数馬太夫の三味線方右和佐古式部(うわさこしきぶ)の門弟で,初め佐々木古流・常磐津志妻太夫に従っていたが,のちに文字太夫の三味線方となり,69年に立三味線となって岸沢古式部と改名。作曲に《善知鳥(うとう)》《荵売(しのぶうり)》等がある。(2)2世(1757-1823・宝暦7-文政6) 初世門弟市治が1783年(天明3)式佐を襲名,95年(寛政7)3世古式部となる。のち一時岸沢右和佐を名のるが再度古式部となる。常磐津節発展に尽力し岸沢派の基礎を固めた。独自の作曲のほか鳥羽屋里長との共作に《関の扉》《戻駕(もどりかご)》等がある。(3)3世(1774-1829・安永3-文政12) 一説に1823年没。2世門弟九蔵が1800年襲名したが,05年(文化2)破門,20年許されて右和佐を名のった。(4)4世(1772-1822・安永1-文政5) 2世門弟文蔵が1807年襲名,3世破門後の穴を埋めたが名古屋で客死。(5)5世(1806-66・文化3-慶応2) 4世の実子初世仲助が3世式佐との家元相続争いに勝って1825年襲名。53年(嘉永6)4世古式部を相続。三弦の名手。常磐津節大成に尽力し,《乗合船》《三世相》等名曲の多くはこの人の作曲による。60年(万延1)初世常磐津豊後大掾と紛争を起こして独立,岸沢流を立てた。(6)6世(1833-98・天保4-明治31) 5世の子巳佐吉が1857年(安政4)襲名。86年常磐津派と和解。後5世古式部となる。(7)7・8世(1859-1944・安政6-昭和19) 6世の養子2世巳佐吉が1892年に7世式佐を襲名,いったん名を戻し,改めて8世式佐を名のる。21年6世古式部を相続。(8)9世(1892-1979・明治25-昭和54) 8世の養子3世巳佐吉が1921年襲名。26年常磐津勘右衛門となり常磐津正派を興す。(9)10世(1909-62・明治42-昭和37) 8世の実子4世巳佐吉が1931年襲名。(10)11世(1944(昭和19)- )10世の実子5世巳佐吉が1973年襲名。
執筆者:安田 文吉
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岸沢 式佐(7代目)
キシザワ シキサ
- 職業
- 常磐津節三味線方
- 肩書
- 岸沢流家元
- 本名
- 岸沢 巳佐吉
- 別名
- 前名=岸沢 巳佐吉(2代目),後名=岸沢 式佐(8代目),岸沢 古式部(6代目)
- 生年月日
- 安政6年 10月
- 出生地
- 江戸・牛込(東京都)
- 経歴
- 常磐津左喜太夫の孫。6代式佐の養子となり、明治25年2代巳佐吉から7代目式佐を継いだ。しかし一時式佐を返上、改めて8代目を名乗って大正10年6代古式部となった。「墨塗女」などの作曲がある。
- 没年月日
- 昭和19年 9月18日 (1944年)
- 家族
- 祖父=常磐津 左喜太夫,子=岸沢 式佐(10代目)
- 親族
- 養父=岸沢 式佐(6代目),養子=岸沢 式佐(9代目)
岸沢 式佐(6代目)
キシザワ シキサ
- 職業
- 常磐津節三味線方
- 肩書
- 岸沢流家元
- 別名
- 前名=岸沢 巳佐吉,後名=岸沢 古式部(5代目)(キシザワ コシキブ)
- 生年月日
- 天保4年
- 経歴
- 常磐津浄瑠璃三絃の家元で、岸沢式佐が祖。弘化3年から芝居に出、嘉永5年中村座で「其俤拙模様」の立三味線を務め、安政6年6代式佐を襲名。同年常磐津方と給金割で不和となり、退流して岸沢一派を立てた。明治15年和解、常磐津小文字太夫の相方を務め、25年5代古式部を相続。父に次ぐ作曲の名手で、「松島」「紅葉狩」「釣女」「戻橋」「お染」「三保の松」「太田道潅」などがある。
- 没年月日
- 明治31年 2月26日 (1898年)
- 家族
- 祖父=岸沢 式佐(4代目),父=岸沢 式佐(5代目),養子=岸沢 式佐(7代目),弟=岸沢 竹遊斎(2代目)
岸沢 式佐(10代目)
キシザワ シキサ
- 職業
- 常磐津節三味線方
- 肩書
- 岸沢流家元
- 本名
- 岸沢 正
- 別名
- 前名=岸沢 巳佐吉(4代目)
- 生年月日
- 明治42年 4月28日
- 出生地
- 東京
- 経歴
- 7代目式佐の子で、大正12年6代巳佐吉を襲名、昭和6年10代目式佐を継いだ。「渋蛇の目」「猿蟹合戦」「高野聖」などの作曲作品がある。
- 没年月日
- 昭和37年 9月4日 (1962年)
- 家族
- 父=岸沢 式佐(7代目)
岸沢 式佐(9代目)
キシザワ シキサ
- 職業
- 常磐津節三味線方
- 肩書
- 岸沢流家元
- 本名
- 小松原 正一
- 別名
- 後名=常磐津 勘右衛門
- 生年月日
- 明治25年 3月15日
- 経歴
- 7代目の養子で、明治41年3代巳佐吉、大正10年9代式佐を襲名したが、養父に実子があったため式佐を返上。昭和2年常磐津勘右衛門と改名、常磐津正派を興した。巳佐吉の世数に数えず、式佐の名はそのままとしている。
- 没年月日
- ?
- 家族
- 養父=岸沢 式左(7代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
岸沢式佐(5代)
没年:慶応2.12.19(1867.1.24)
生年:文化3(1806)
江戸後期の常磐津節の三味線方。4代目式佐の子で名は仲助。文政5(1822)年4代目式佐が名古屋で客死したのち,2代目岸沢右和左(3代目式佐)と跡目争いとなったが,8年11月中村座で5代目式佐を襲名。天保4(1833)年6月両国中村屋で襲名披露,5年名古屋にて4代目の十三回忌追善を行った。嘉永6(1853)年4代目古式部と改名,常磐津豊後大掾(4代目文字太夫)とのコンビで常磐津節は隆盛を誇った。「三世相」の功績をめぐって両者は不和となり,万延1(1860)年常磐津・岸沢両派は分裂し,6代目式佐の三味線で立語りとなった。元治1(1864)年竹遊斎を名乗った。作曲に優れ,現存の常磐津節の名曲の大半はこの人の作曲である。主な作品は「角兵衛」(1828),「将門」(1836),「靱猿」(1838),「三人生酔」(1838),「乗合船」(1843),「どんつく」(1846),「勢獅子」(1851),「薪荷雪間市川」(1848)。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
岸沢 式佐(7代目)
キシザワ シキサ
明治〜昭和期の常磐津節三味線方 岸沢流家元。
- 生年
- 安政6年10月(1859年)
- 没年
- 昭和19(1944)年9月18日
- 出生地
- 江戸・牛込
- 本名
- 岸沢 巳佐吉
- 別名
- 前名=岸沢 巳佐吉(2代目),後名=岸沢 式佐(8代目),岸沢 古式部(6代目)
- 経歴
- 常磐津左喜太夫の孫。6代式佐の養子となり、明治25年2代巳佐吉から7代目式佐を継いだ。しかし一時式佐を返上、改めて8代目を名乗って大正10年6代古式部となった。「墨塗女」などの作曲がある。
岸沢 式佐(10代目)
キシザワ シキサ
昭和期の常磐津節三味線方 岸沢流家元。
- 生年
- 明治42(1909)年4月28日
- 没年
- 昭和37(1962)年9月4日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 岸沢 正
- 別名
- 前名=岸沢 巳佐吉(4代目)
- 経歴
- 7代目式佐の子で、大正12年6代巳佐吉を襲名、昭和6年10代目式佐を継いだ。「渋蛇の目」「猿蟹合戦」「高野聖」などの作曲作品がある。
岸沢 式佐(9代目)
キシザワ シキサ
大正・昭和期の常磐津節三味線方 岸沢流家元。
- 生年
- 明治25(1892)年3月15日
- 没年
- (没年不詳)
- 本名
- 小松原 正一
- 別名
- 後名=常磐津 勘右衛門
- 経歴
- 7代目の養子で、明治41年3代巳佐吉、大正10年9代式佐を襲名したが、養父に実子があったため式佐を返上。昭和2年常磐津勘右衛門と改名、常磐津正派を興した。巳佐吉の世数に数えず、式佐の名はそのままとしている。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
岸沢式佐(5世)
きしざわしきさ[ごせい]
[生]文化3(1806)
[没]慶応2(1866).12.19.
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。4世岸沢式佐の子。前名仲助。文政8 (1825) 年襲名。嘉永6 (53) 年4世古式部襲名。万延1 (60) 年2世常磐津豊後大掾と不和。岸沢派として独立,太夫を養成して常磐津家元と対抗。元治1 (64) 年竹遊斎と号す。作曲の名手。『三人生酔』『乗合船』『将門』『三世相』『山姥』『角兵衛』など常磐津節名曲の大半を作曲した。
岸沢式佐(1世)
きしざわしきさ[いっせい]
[生]享保15(1730)
[没]天明3(1783)
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。豊後節三味線方右和佐古式部の門弟。明和6 (1769) 年1世常磐津文字太夫の立三味線となり,岸沢式佐から2世岸沢古式部と改名。作曲『善知鳥 (うとう) 』『双面 (ふたおもて) 』など。以後代々常磐津節の立三味線となり,式佐晩年にはたいていは古式部と称する。
岸沢式佐(6世)
きしざわしきさ[ろくせい]
[生]天保4(1833)
[没]1898.2.
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。5世岸沢式佐の子。前名巳佐吉。安政4 (1857) 年襲名。 1886年常磐津派と和解。分派家元としては存続。 92年5世古式部襲名。作曲『お染』『松島』『紅葉狩』など。
岸沢式佐(2世)
きしざわしきさ[にせい]
[生]宝暦7(1757)
[没]文政6(1823).1.
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。1世岸沢式佐の門弟。前名市治。天明3 (1783) 年襲名。寛政7 (95) 年3世古式部,文化 12 (1815) 年右和佐,文政3 (20) 年再び古式部と改名。作曲『子宝三番叟』『三勝』など。
岸沢式佐(3世)
きしざわしきさ[さんせい]
[生]安永3(1774)
[没]文政12(1829)
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。2世岸沢式佐の門弟。前名九蔵。寛政 12 (1800) 年襲名。文化2 (19) 年破門され,富本節に転向,のち帰参し右和佐と名のる。
岸沢式佐(4世)
きしざわしきさ[よんせい]
[生]安永1(1772)
[没]文政4(1821)
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。2世岸沢式佐の門弟。1世鳥羽屋里長門人で,のちに式佐門下に入る。前名文蔵。文化4 (1807) 年襲名。作曲『源太』など。
岸沢式佐(7世)
きしざわしきさ[ななせい]
[生]安政6(1859)
[没]1944
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。6世岸沢式佐の養子。前名2世巳佐吉。 1892年7世襲名。いったん返上し,のちあらためて8世となる。 1906年,再び常磐津派と分裂。 21年7世古式部襲名。作曲『三人片輪』など。
岸沢式佐(9世)
きしざわしきさ[きゅうせい]
[生]1892.3.15
[没]?
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。7世岸沢式佐の養子。前名3世巳佐吉。 1921年襲名。 1926年,常磐津勘右衛門と改名し,常磐津正派を称す。
岸沢式佐(10世)
きしざわしきさ[じっせい]
[生]1909
[没]1962.9.4. 東京
常磐津節の三味線方,岸沢派の家元。7世岸沢式佐の実子。前名4世巳佐吉。 1931年襲名。
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岸沢式佐(5代) きしざわ-しきさ
1806-1867* 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
文化3年生まれ。4代岸沢式佐の子。文政8年3代式佐との家元の相続争いにかち,岸沢派5代目を襲名。近世の名人といわれる。嘉永(かえい)6年4代古式部を襲名。万延元年初代常磐津豊後大掾(ときわず-ぶんごのだいじょう)(4代文字太夫)と不和になり,分離独立し,竹遊斎と改名した。慶応2年12月19日死去。61歳。本名は仲助。作品に「角兵衛」「将門(まさかど)」「乗合船」など。
岸沢式佐(初代) きしざわ-しきさ
1730-1783 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
享保(きょうほう)15年生まれ。右和左古式部(うわさ-こしきぶ)の門人。明和5年初代佐々木市蔵没後,初代常磐津(ときわず)文字太夫の三味線をひき,式佐から2代古式部と改名。翌年立三味線となった。天明3年9月24日死去。54歳。作品に「善知鳥(うとう)」「荵売(しのぶうり)」など。
岸沢式佐(3代) きしざわ-しきさ
1774-1829 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
安永3年生まれ。2代岸沢式佐の門人。前名は2代九蔵。寛政12年に3代目をついだが,5年後に破門され,数寄屋藤八と名のり富本派に転じる。文政3年ゆるされ2代右和左(うわさ)をついだ。4代式佐と師が相ついで没した後,岸沢派の家元争いに敗れ,文政12年憤死したという。56歳。
岸沢式佐(9代) きしざわ-しきさ
1892-1979 大正-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治25年3月15日生まれ。7代(8代)岸沢式佐の養子で,3代巳佐吉(みさきち)を名のる。大正10年岸沢派家元9代を襲名。昭和2年養父に実子があるため式佐の名を返上して常磐津(ときわず)勘右衛門となり,常磐津正派をおこした。昭和54年死去。87歳。本名は小松原正一。
岸沢式佐(2代) きしざわ-しきさ
1757-1823 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
宝暦7年生まれ。初代岸沢式佐の門弟。岸沢市治を名のる。天明3年師の死後ただちに式佐をつぎ,立三味線となる。のち3代古式部を襲名。一時右和左(うわさ)と称する。常磐津(ときわず)節岸沢派の基礎をかためた。文政6年11月死去。67歳。作品に「夕霧」「忠信」など。
岸沢式佐(6代) きしざわ-しきさ
1833-1898 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)4年生まれ。5代岸沢式佐の長男。安政6年岸沢派家元6代を襲名し,のち5代古式部をつぐ。明治15年父の代に分裂した常磐津(ときわず)派と和解した。明治31年2月26日死去。66歳。初名は初代巳佐吉(みさきち)。作品に「紅葉狩」「戻橋」など。
岸沢式佐(4代) きしざわ-しきさ
1772-1822 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
安永元年生まれ。初代鳥羽屋里長(とばや-りちょう)に師事した後,2代岸沢式佐の門弟となり文蔵を名のる。文化4年4代を襲名し,3代が破門された後の岸沢派家元をつとめたが,文政5年5月京坂地方巡業の帰り,名古屋で客死した。51歳。作品に「源太」「梶原」など。
岸沢式佐(7代) きしざわ-しきさ
1859-1944 明治-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
安政6年10月生まれ。6代岸沢式佐の養子になり,明治25年に岸沢派家元7代をつぐが,一時返上し,あらためて8代式佐を名のった。のち7代古式部を襲名。昭和19年9月18日死去。86歳。前名は2代巳佐吉(みさきち)。作品に「墨塗女」「三人片輪」など。
岸沢式佐(10代) きしざわ-しきさ
1909-1962 昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治42年4月28日生まれ。7代岸沢式佐の子。昭和6年岸沢派家元10代式佐を襲名。昭和37年9月4日死去。53歳。東京出身。本名は正。作品に「高野聖」「渋蛇の目」「猿蟹合戦」など。
岸沢式佐(11代) きしざわ-しきさ
1944- 昭和後期-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
昭和19年10月1日生まれ。10代岸沢式佐の子。常磐津節(ときわずぶし)。昭和48年11代岸沢式佐を襲名。東京都出身。本名は幸夫。
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岸沢 式佐(7代目・8代目) (きしざわ しきさ)
生年月日:1859年10月16日
明治時代-昭和時代の三味線奏者
1944年没
岸沢 式佐(10代目) (きしざわ しきさ)
生年月日:1909年4月28日
昭和時代の浄瑠璃三味線方
1962年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の岸沢式佐の言及
【関の扉】より
…宝田寿来作詞。初世[鳥羽屋里長],2世岸沢式佐作曲。2世[西川扇蔵]振付。…
【瓢簞鯰】より
…作詞2世[瀬川如皐](じよこう)。作曲10世[杵屋(きねや)六左衛門],3世[岸沢式佐]。振付4世[西川扇蔵],藤間大助ほか。…
【京人形】より
…作詞桜田治助。作曲4世岸沢式佐。振付西川巳之助,西川芳三郎。…
【三人生酔】より
…1838年(天保9)正月,2世市川九蔵(のちの6世団蔵),12世市村羽左衛門ほかにより江戸市村座で初演。[中村重助]作詞,5世[岸沢式佐]作曲,4世西川扇蔵振付。3人の仕丁が工藤の館の奥庭で酒を酌み交わし,笑い上戸,怒り上戸,泣き上戸の踊りとなる。…
【年増】より
…作詞3世[桜田治助]。作曲5世[岸沢式佐]。振付2世[藤間勘十郎]。…
【どんつく】より
…作詞3世[桜田治助]。作曲5世[岸沢式佐]。振付西川巳之助。…
【乗合船】より
…作詞3世[桜田治助]。作曲5世[岸沢式佐]。振付西川七郎次,西川巳之助(5世[西川扇蔵]),西川芳次郎,花川蝶十郎。…
【俳諧師】より
…作詞3世[桜田治助]。作曲5世[岸沢式佐]。振付2世[藤間勘十郎]。…
【将門】より
…1836年(天保7)7月江戸市村座一番目狂言《世善知鳥相馬旧殿(よにうとうそうまのふるごしよ)》の六建目大詰に初演。作詞宝田寿助,作曲5世[岸沢式佐],振付4世[西川扇蔵]。傾城如月(きさらぎ)実は平将門の娘滝夜叉姫を市川九蔵,源頼信の臣大宅太郎光圀を12世市村羽左衛門が演じた。…
【宗清】より
…作詞奈河本助。作曲5世[岸沢式佐]。振付4世[西川扇蔵]。…
【山姥】より
…現行の山姥物の様式が決定したのは,85年(天明5)初世[瀬川如皐]作詞,初世[鳥羽屋里長]作曲の常磐津《四天王大江山入》(古山姥)である。現在多く上演されるのは,俗に〈新山姥〉といわれる常磐津《薪荷雪間(たきぎおうゆきま)の市川》で,[三升屋二三治](みますやにそうじ)作詞,5世[岸沢式佐]作曲,8世市川団十郎の山姥,4世坂東彦三郎の山樵,市川小団次の怪童丸により,1848年(嘉永1)江戸河原崎座初演。ほかに富本《母育雪間鶯》(三津五郎山姥),清元《月花茲友鳥(つきとはなここにともどり)》(山姥)などがある。…
【羽衣】より
…1888年1月東京歌舞伎座初演。作詞3世[河竹新七],作曲13世[杵屋(きねや)六左衛門],6世[岸沢式佐]。振付初世[花柳寿輔],花柳勝次郎。…
【戻橋】より
…作詞[河竹黙阿弥]。作曲6世[岸沢式佐]。振付初世[花柳寿輔]。…
【紅葉狩】より
…作詞[河竹黙阿弥]。作曲鶴沢安太郎,6世[岸沢式佐],3世[杵屋正次郎]。振付9世[市川団十郎]。…
【三人片輪】より
…作詞竹柴其水。作曲7(8)世[岸沢式佐],9世杵屋六三郎。振付初世[花柳寿輔]。…
【三人片輪】より
…作詞竹柴其水。作曲7(8)世[岸沢式佐],9世杵屋六三郎。振付初世[花柳寿輔]。…
【常磐津節】より
…
[展開]
常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して[富本]節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。文字太夫は順調に活躍を続けたが,1768年(明和5)に立三味線初世市蔵が死没,その後継者に初世[岸沢式佐]が選ばれたため,佐々木派と組んだ志妻,造酒(みき)両太夫が豊名賀と,若太夫が富士岡と改姓し一派を樹立した。ただし後者は1代で消滅,前者は3代限りで初世常磐津兼太夫のとき常磐津に再統一された。…
※「岸沢式佐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」