改訂新版 世界大百科事典 「峨山韶碩」の意味・わかりやすい解説
峨山韶碩 (がさんじょうせき)
生没年:1275-1365(建治1-正平20・貞治4)
鎌倉末・南北朝期の曹洞宗の僧。総持寺の2世として知られる。没年は一説に1366年。諡号(しごう)は大現宗猷国師。能登(石川県)羽咋郡瓜生田に生まれ,11歳で郡の教寺に入った。16歳のときに比叡山に登って髪を落とし,天台宗の学問を習ったが,のち加賀(石川県)大乗寺の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)(紹瑾)に参じ,曹洞禅宗に転じた。1321年(元亨1)秋,瑩山の弟子となり,24年(正中1)瑩山の開いた総持寺の2世となった。40年(興国1・暦応3)と63年(正平18・貞治2)の2度にわたり,やはり瑩山の開いた永光寺(ようこうじ)(石川県羽咋市)に住したが,それ以外は総持寺に住し,地頭長谷部氏の帰依を受けるなどして,同寺の発展に尽力した。とくに,彼の晩年から死後にかけて,多くの寺領の寄進を受けている。また,多数の門弟を養育し,そのうちの25人を二十五哲,とくにすぐれた太源宗真,通幻寂霊,無端祖環,大徹宗令,実峰良秀は五哲と称された。彼らの活躍により,曹洞宗全国発展の基礎がつくられた。なお,峨山が永光寺に住しているときに,総持寺との間をさかんに往来したが,その道はのちに〈峨山越え〉と称されたという。晩年は養寿院を開創して退居した。
執筆者:広瀬 良弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報