島木健作(読み)しまきけんさく

精選版 日本国語大辞典 「島木健作」の意味・読み・例文・類語

しまき‐けんさく【島木健作】

小説家。本名朝倉菊雄。札幌出身。東北大文学部選科中退。共産主義運動による入獄肺結核の体験をもとに、昭和九年(一九三四処女作「癩」でデビュー。いわゆる転向文学の代表的作家の一人として、雑誌文学界」を中心活躍代表作は「生活の探求」「赤蛙」。明治三六~昭和二〇年(一九〇三‐四五

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デジタル大辞泉 「島木健作」の意味・読み・例文・類語

しまき‐けんさく【島木健作】

[1903~1945]小説家。北海道の生まれ。本名、朝倉菊雄。農民運動に参加。検挙され、転向後に作家生活に入る。作「」「生活の探求」「赤蛙」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島木健作」の意味・わかりやすい解説

島木健作
しまきけんさく
(1903―1945)

小説家。明治36年9月7日、札幌生まれ。本名朝倉菊雄。2歳のとき父を失って一家は離散し、苦学しながら20歳で北海中学を卒業、東北帝国大学法文学部の選科に入ったが、東北学連に加わって学業を棄(す)て、1926年(大正15)日本農民組合香川県連合会木田郡支部の書記となり、農民運動に投じた。1928年(昭和3)三・一五事件で検挙、起訴され、翌年控訴審の公判廷で転向を声明したが、1930年有罪が確定して下獄した。1932年仮釈放ののち、1934年4月『文学評論』に『癩(らい)』を発表して注目された。7月に『中央公論臨時増刊新人号』に載せた『盲目』も世評をよび、その年のうちに第一創作集『獄』を出版して新進作家としての地歩を固めた。1937年6月『再建』を刊行したが発禁となる。翌月の日中開戦を挟んで、10月には帰農を主題にした『生活の探求』を発表、1938年6月刊の続編とともに、戦争下の青年、知識層に広く迎えられる。この年末、農民文学懇話会設立に参画。『満洲紀行(まんしゅうきこう)』(1940)などの旅行記もある。晩年、宿痾(しゅくあ)の肺患の床に小康を得て最後長編『礎(いしずえ)』(1944)を書き上げたのち、『黒猫』『赤蛙(あかがえる)』などの短編を残したが、昭和20年8月17日、敗戦の翌々日、鎌倉にて没した。それらの短編は、没後、新潮社から刊行された『出発まで』(1946)に収められている。

[高橋春雄]

『『島木健作全集』全15巻(1976~81・国書刊行会)』『小笠原克著『島木健作』(1965・明治書院)』

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改訂新版 世界大百科事典 「島木健作」の意味・わかりやすい解説

島木健作 (しまきけんさく)
生没年:1903-45(明治36-昭和20)

小説家。札幌市生れ。本名朝倉菊雄。苦学しながら20歳で北海中学を卒業。東北帝大法学部の選科に入ったが,東北学連に加わってその中心人物となり,1926年学業を捨てて四国に渡り,日農香川県連木田郡支部の書記として農民運動に投じた。翌年日本共産党に入党。28年最初の普通選挙に大山郁夫らを擁立して奮闘中,三・一五事件に先立って検挙され,控訴審の公判廷で転向を声明。32年仮釈放ののち,34年獄中体験に基づいた《癩》を発表して注目され,続く《盲目》等により新進作家としての地歩を固めた。37年日中戦争の開始(蘆溝橋事件)をはさんで前後に《再建》《生活の探求》を刊行。前者は発禁となるが,後者の求道的な帰農への志向は当時の青年知識層に広く迎えられた。戦争末期には《礎》(1944)などで宗教的な境地への沈潜を求めた。また宿痾(しゆくあ)の肺患の床に小康を得ては書き継がれた《赤蛙》(1947),《黒猫》などの佳品もある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島木健作」の意味・わかりやすい解説

島木健作
しまきけんさく

[生]1903.9.7. 札幌
[没]1945.8.17. 東京
小説家。本名,朝倉菊雄。2歳のとき父と死別,母の内職で成人。 1926年東北大学法学部選科を中退して農民運動に参加したが,検挙されて 28~32年獄中生活をおくった。その体験に基づく『癩 (らい) 』 (1934) を発表,転向文学として注目され,『再建』 (37) はのちに発売禁止となったが決定的評価を得た。左翼運動の挫折からの「信念再生の物語」を期した『生活の探求』 (37,38) は転向文学の新生面を開いたものとして好評を博した。以後『人間の復活』 (39) ,『運命の人』 (40) ,『礎』 (44) などの力作を書き続けたが,病弱と過労で,第2次世界大戦の敗戦2日後に死んだ。なお死後発表された『赤蛙』 (46) は小動物の生と死に自己の感慨を託した心境小説で,作者の最後に到達した死生観が注目を浴びた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島木健作」の解説

島木健作 しまき-けんさく

1903-1945 昭和時代前期の小説家。
明治36年9月7日生まれ。農民運動に従事し,共産党に入党。昭和3年三・一五事件で検挙され,転向。9年獄中体験を「癩(らい)」「盲目」にあらわし,注目される。農民運動の実態をえがいた「再建」,求道的な帰農をテーマにした「生活の探求」などを発表した。昭和20年8月17日死去。43歳。北海道出身。東北帝大中退。本名は朝倉菊雄。
【格言など】私小説のあの「味」の魅力に,文学が好きになればなるほどひかれてゆく(「昭和二十年日記」)

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百科事典マイペディア 「島木健作」の意味・わかりやすい解説

島木健作【しまきけんさく】

小説家。本名朝倉菊雄。札幌生れ。東北大中退。農民運動に参加し,1927年日本共産党入党,翌年三・一五事件に先立って検挙され,転向。1934年《癩》《盲目》を書いて文壇に出た。いわゆる転向文学の作家で《生活の探求》《人間の復活》などで多くの読者を得た。遺作に《赤蛙》がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島木健作」の解説

島木健作
しまきけんさく

1903.9.7~45.8.17

昭和前期の小説家。本名朝倉菊雄。北海道出身。苦学して東北大選科に入学するが,社会主義に興味をもち,仙台で最初の労働組合を組織する。のちに学業を捨てて香川で農民運動に参加。1928年(昭和3)の3・15事件で検挙され転向。その後小説を書きはじめ,「癩」「生活の探求」など,戦時の暗い世相のなかで知識階級の良心を守る仕事を続けた。

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