崔致遠(読み)さいちえん

精選版 日本国語大辞典 「崔致遠」の意味・読み・例文・類語

さい‐ちえん ‥チヱン【崔致遠】

朝鮮新羅思想家文学者。唐に留学進士合格、承務郎侍御史内供奉に至る。二八歳で帰国、唐の制度移入に尽くしたが、受け入れられず、晩年伽倻山隠遁。著に「崔致遠文集」「桂苑筆耕」などがある。八五七年生。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「崔致遠」の意味・わかりやすい解説

崔致遠
さいちえん
(857―?)

朝鮮、新羅(しらぎ)時代の学者、詩人。字(あざな)は孤雲。慶州の人。12歳のとき唐に留学、17歳で唐の科挙に及第するほどの秀才であった。黄巣(こうそう)の乱のとき、唐の将軍高駢(こうへん)(?―887)の従事官として従軍、数々の表状、書啓、檄文(げきぶん)などを書いたが、なかでも『討黄巣檄文』は有名。885年、28歳で帰国し、一時地方の長官を務めたこともあったが、国政の乱れを悲観、名勝地を流浪したのち、伽倻山(かやさん)の海印寺(かいいんじ)に入り余生を送ったという。書家、美文家として一世を風靡(ふうび)。『鸞郎碑(らんろうひ)序文』は新羅の花郎(かろう)道を知るうえで重要な資料である。著書に『桂苑(けいえん)筆耕』『釈順応伝』など。1部20巻の『桂苑筆耕』は儒学者の文集としては朝鮮最古のもの。

[尹 學 準 2016年10月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「崔致遠」の意味・わかりやすい解説

崔致遠 (さいちえん)
Ch`oe Ch`i-wǒn
生没年:858-?

朝鮮,新羅末期の文人。字は孤雲,海雲。王京(慶州)の人。12歳のとき唐に渡り,874年に17歳で唐の科挙に及第して官途につく。黄巣の乱(875-884)に際して高駢(こうへん)の従事官となり,上表文,檄文等を草して文名を高めた。85年帰国して侍読兼翰林学士に任官されたが,国政の乱れに活動もままならず,93年遣唐使としての渡航も阻まれ,翌年真聖女王に〈時務〉10余条を献策した。のち乱世に絶望して各地をめぐり,ついに伽倻山海印寺に隠れすんだという。在唐期の文集《桂苑筆耕》20巻をはじめ,詩賦や《崇福寺碑銘》《釈順応伝》等が伝わる。その門人から新興の高麗に仕官した者が出ている。諡号(しごう)は文昌侯。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「崔致遠」の意味・わかりやすい解説

崔致遠
さいちえん
Ch'oe Ch'iwǒn

[生]憲安王2(858)
[没]?
朝鮮,新羅末期の文人。字は孤雲,海雲。諡は文昌侯。王都慶州の沙梁部出身。 12歳で渡唐。 18歳で唐の科挙に及第。黄巣の乱では高駢 (こうべん) の従事 (書記) となり,檄文を草して名をあげた。憲康王 11 (885) 年帰国して侍読兼翰林学士となり,のち兵部侍郎となったが,政局が不安でその才能を発揮できなかった。真聖女王7 (893) 年遣唐使に任じられたが果さず,翌年時務 10条余を具申した。のち官を辞して伽 倻山海印寺に隠棲。高麗が興るとこれを支持し,彼の門人で高麗朝に仕官した者も少くない。彼は朝鮮漢文学の第一人者で四六駢儷体の大家である。また人生のなかばにして山寺に隠れ,世間との交渉を断ったために後世の文人学者は彼を逃避生活の代表的人物とみなし,神仙伝中の人のごとくにさえ考えている。彼の詩文は『桂苑筆耕』 (20巻) のほか,『東文選』『挟註十抄詩』および新羅の碑文に残っている。

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