市原(市)(読み)いちはら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「市原(市)」の意味・わかりやすい解説

市原(市)
いちはら

千葉県中西部、東京湾岸の市。1963年(昭和38)市原、五井(ごい)、姉崎(あねさき)、市津(しづ)、三和(さんわ)の5町が合併して市制施行。1967年南総(なんそう)町と加茂(かも)村を編入。地名の起源は上総国(かずさのくに)の国府が置かれ、市(いち)が立ったことにある。JR内房(うちぼう)線と国道16号が湾岸に走り、五井から養老(ようろう)川流域に沿って、小湊鉄道(こみなとてつどう)と国道297号が走り、房総丘陵の山間部と連絡している。やや丘陵寄りを館山(たてやま)自動車道が縦断し、中南部を国道409号が横断して牛久(うしく)で297号と交差、409号のさらに南方を圏央道が横断する。千葉市に接する北端の大規模な都市計画事業地区である千原台に、京成電鉄千原線(旧、千葉急行線)ちはら台駅が1995年(平成7)に開業、千葉中央駅に通じている。

 台地上には縄文、弥生(やよい)時代の遺跡が多く、古墳も姉崎を中心に分布している。国府の位置は惣社(そうじゃ)にあったと推定されているが、ここには上総国分寺が建立された。中世には里見(さとみ)氏と北条氏の戦場となり、江戸時代には幕府直轄領と旗本領となって、幕末には鶴牧藩(つるまきはん)1万5000石、1868年(明治1)に浜松より移封された井上正直(まさなお)の鶴舞藩(つるまいはん)6万石が成立した。近世には村田川河口の港である八幡(やわた)宿が九十九里浜地域を後背地として栄えた。明治以後、東京湾岸ではノリと貝の採集をする半農半漁村が分布し、養老川流域の平野部は米に依存した純農村地域であった。第二次世界大戦後、東京湾岸工業地域形成の動きのなかで、1957年地先海面は埋め立てられて工業用地となり、漁民は漁業権を放棄し陸へあがった。湾岸には大企業が集中して進出し、一大臨海石油化学コンビナートが成立、大工業都市へと変貌(へんぼう)した。近くの台地には工場従業者の社宅である辰巳台(たつみだい)団地や有秋台(ゆうしゅうだい)団地がまとまって開かれ、近年では新しい大規模住宅地が増加している。内陸部では米作農業が盛んであり、耕地整理の済んだみごとな水田が展開している。台地上は全国一といわれるほどにゴルフ場が集中し、工業用水確保のためにつくられた山倉ダムは、千葉こどもの国キッズダムとして開放され、さらに房総丘陵の養老渓谷へと続いていて絶好の都市近郊レクリエーション地域ともなっている。飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)は、武運、海上守護の神で、武士や庶民の信仰が厚かったとされ、本殿は国指定重要文化財。さらに上総国分寺跡上総国分尼寺跡は国の史跡、鶴峰八幡(つるみねはちまん)の神楽(かぐら)と大塚ばやしは県の無形民俗文化財である。面積368.17平方キロメートル、人口26万9524(2020)。

[山村順次]

『『市原の歩み』(1973・市原市)』『『市原市史 別巻』(1979・市原市)』


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