日本大百科全書(ニッポニカ) 「天寿国繍帳」の意味・わかりやすい解説
天寿国繍帳
てんじゅこくしゅうちょう
飛鳥(あすか)時代につくられた日本最古の刺しゅう。奈良・中宮寺蔵。国宝。現存するものは縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの濃い灰色の絹縮(きぬちぢみ)を台裂(ぎれ)に、紫羅(ら)、紫綾(あや)、白平絹(しろへいけん)を地とし刺しゅうを施している。図は蓮台(れんだい)にのる仏、神将像、僧や俗人、あるいは兎(うさぎ)、鳳凰(ほうおう)、鐘楼、仏殿、それに飛雲(ひうん)や唐草(からくさ)を配し、三段六区の二列に区分されている。その図のなかにある亀背(きはい)に「部間人公」「干時多至」「皇前曰啓」「仏是真玩」および断片の「利令者椋」の四字一組の銘文が繍(ぬ)い合わされている。これらの銘文は、もと二張りであった繍帳の100個の亀の背一つに四文字ずつ、計400文字あったが、その全文は現存最古の聖徳太子伝とされる『上宮聖徳法王帝説』に記され、この繍帳作成の由来がわかる。すなわち、推古(すいこ)天皇の30年(622)2月、聖徳太子の死後、王妃橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は天皇の許しを得て、太子が往生された天寿国のさまを図にするため、椋部秦久麻(くらべのはたのくま)を総監督に、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)の3人の画師に下絵を描かせ、采女(うねめ)たちが刺しゅうしたというもので、現在残るのはその残欠である。
紫羅地に刺しゅうを施した部分は飛鳥時代の作であるが、繍法を異にする部分も混じっていて、それは鎌倉時代に補修されたためと思われる。しかし飛鳥時代の染織品として、しかも作製の由来の明らかな点からも、きわめて貴重な遺品である。
[永井信一]