日本大百科全書(ニッポニカ) 「度会常昌」の意味・わかりやすい解説
度会常昌
わたらいつねよし
(1264―1339)
鎌倉末期の豊受(とようけ)大神宮(伊勢(いせ)神宮外宮(げくう))の禰宜(ねぎ)、度会(伊勢)神道(しんとう)の学者。檜垣(ひがき)氏。幼名は常良(つねよし)、のちに常昌と改める。文永(ぶんえい)元年に一(いちの)禰宜貞尚(さだなお)の次子として出生。1292年(正応5)に禰宜に補せられ、伊勢神宮に奉仕すること48年間に及び、世に檜垣大長官または鏑矢(かぶらや)檜垣とたたえられた。度会神道を深く研究し、比叡山(ひえいざん)の大僧正慈遍(じへん)と親交があり、ともに『旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)』20巻を編纂(へんさん)して後醍醐(ごだいご)天皇に奏覧、また中宮廉子(れんし)(阿野廉子)にも『大神宮両宮之御事』を献上した。1330年(元徳2)3月、勅を奉じて北条高時(ほうじょうたかとき)追討の祈祷(きとう)を行い、その賞として従三位(じゅさんみ)に叙せられたが、のちに討幕の嫌疑から鎌倉に召喚されたこともある。著述には既述のほか、『皇字沙汰文(こうじさたぶみ)』『元徳注進(げんとくちゅうしん)度会系図』『文保(ぶんぽう)服仮令』など多い。延元(えんげん)4年7月27日没。
[中西正幸 2017年10月19日]