コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

後百済 こうひゃくさいHu-Paekche

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後百済
こうひゃくさい
Hu-Paekche

朝鮮,新羅末期の国 (900~936) 。古代三国を統一した新羅も末期になると各地に反乱が起り,豪族が割拠した。尚州 (現慶尚北道) の農民出身の甄萱 (けんけん) は滅亡した百済の再興を名目として孝恭王4 (900) 年,完山州 (現全羅北道全州) を首都に定め「後百済」と号し,中国や日本とも通交した。この前後,北方の鉄円 (江原道) に拠る弓裔の泰封国と残存の新羅と三国が対立したので「後三国」時代ともいう。一方,松岳 (現開城付近) 出身の豪族王建は最初は弓裔の部下であったが,人心が弓裔を去ったのをみて兵をあげ,泰封国を倒して 918年高麗を建国した。以後は高麗と後百済との対立になるが,927年後百済は新羅の慶州に侵入し,景哀王を自殺させ敬順王を擁立した。ところが 935年後百済では王位継承をめぐって内紛が起り,甄萱は長子神剣に幽閉された。甄萱は王建の保護を求めて投降し,天授 18 (935) 年すでに新羅を破った王建は同 19年後百済と一利川 (現慶尚北道全山) に戦い,これを滅ぼして高麗の全朝鮮統一が完成した。

後百済
ごひゃくさい

後百済」のページをご覧ください。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後百済
ごひゃくさい

朝鮮、後三国の一つ。新羅(しらぎ)の支配体制は9世紀末には大きく動揺し、地方では豪族が台頭した。西南では甄萱(けんけん/しんけん)が892年に武州(光州広域市)に挙兵し、900年には完山州(全羅北道全州)を都と定め、百済の復興を唱えた。これが後百済である。甄萱は国家組織を整え呉越(ごえつ)、後唐(こうとう)や、日本(922、929)にも通交した。このころ、北部では弓裔(きゅうえい)が鉄円(江原道鉄原)を拠点に自立し(後高句麗(ごこうくり))、918年には王建がこれにかわって高麗(こうらい)を建て、いわゆる後三国時代の覇を争った。後百済は927年に慶州を攻め、新羅の景哀王(けいあいおう)を自殺せしめて強大化したが、935年には内紛を起こし、甄萱が高麗に亡命するや、高麗の攻撃を受けて翌年滅亡した。[浜田耕策]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の後百済の言及

【高麗】より


[前期]
 高麗王朝をおこした王建は松岳(開城)地方の豪族で,初めは泰封の弓裔(きゆうえい)の部将として活躍したが,やがて弓裔を倒して王となり,高句麗の後継者であることを自任して国を高麗と号し(918),翌年,松岳を都にした。当時,新羅は慶州周辺で余命を保っただけであり,南西部は後百済が支配し,また諸方に豪族が割拠していた。やがて新羅は自立できないことを知り高麗に降服してきた(935)。…

【甄萱】より

…ときに新羅末期,政治がみだれ各地に反乱が起こると彼も反旗をひるがえし,徒党を率いて西南方面の諸城を攻撃し,892年には武珍州(光州)で自立した。つづいて全羅南北道・忠清南道の大部分を支配下に収めた甄萱は,900年,ついに完山州(全州)に都を定め,百済の復興と新羅の打倒を標榜して正式に後百済王と称し,国家の体制を整えた。これより東は新羅と対抗し,北は新興の後高句麗,続いて高麗と対抗する。…

※「後百済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

後百済の関連キーワードチョンジュ(全州)市高麗(朝鮮の王朝)太祖[高麗]王建(朝鮮)日朝交渉史朝鮮の仏教仲哀天皇欽明天皇百済敬福百済足人真興王金山寺

今日のキーワード

異常天候早期警戒情報

5日から 8日先を最初の日とする 7日間の平均気温がかなり高い,またはかなり低い確率が 30%以上と見込まれる場合に注意を呼びかけるため気象庁から発表される情報。低温や猛暑が長く続くと,人の活動や農作...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

後百済の関連情報