忌部神社(読み)いんべじんじや

日本歴史地名大系 「忌部神社」の解説

忌部神社
いんべじんじや

[現在地名]松江市東忌部町

忌部川右岸、中世の忌部保に鎮座し、忌部惣社と称された。祭神は天照大御神など。旧郷社。大宮三所明神・大宮大明神とも称された(八束郡誌)。平安期の創建とも伝えるが未詳。鎌倉中期には土屋氏が忌部保の地頭となっており、当時その一族で大東だいとう(現大東町)地頭の土屋六郎左衛門入道は淀本よどほん(現同上)万福まんぷく寺の中沢円慶法院の弟を招いて曹泉そうせん院の院主とし、のち曹泉寺(現在の東忌部町にある臨済宗妙心寺派慈恩寺)と改称、忌部大宮の神宮寺を兼ねさせたという。一方、出雲守護佐々木泰清の七男頼清は文永一〇年(一二七三)鰐淵がくえん寺別当の申請を受け、同寺山内の一堂を忌部河畔に移して正覚坊(のち石雲山正覚寺)と称し、墾田二〇〇貫を宛行い、正覚坊長の頼円に忌部大宮神宮寺導師を兼務させようとした。しかし地頭土屋氏が墾田を分与しなかったため、頼清は土屋氏の屋敷を奪って頼円に与え、こののち毎年の忌部大宮の祭事をめぐって正覚坊と曹泉寺は対立したという(以上「忌部総社神宮寺根元録」)


忌部神社
いんべじんじや

[現在地名]徳島市勢見町二丁目

国道四三八号の西方山南東の中腹にある。主祭神は忌部氏祖神天日鷲命。旧国幣中社。当社は明治二五年(一八九二)新築されたもので、古代以来の忌部氏祖神の鎮座地ではない。明治四年五月に神社の社格および神官職制が制定されたとき、「延喜式」神名帳記載の麻殖おえ郡の名神大社忌部イムヘノ神社」が国幣中社に指定された。同社の所在地について諸説あったが、調査を担当した小杉榲邨は同社は麻植郡山崎やまさき(現山川町)にある忌部神社(現山崎忌部神社、祭神は天日鷲命・天太玉命)であると決定し、明治八年一月に勅使下向があり、官祭が執行された。

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改訂新版 世界大百科事典 「忌部神社」の意味・わかりやすい解説

忌部神社 (いんべじんじゃ)

徳島市に鎮座。天日鷲(あめのひわし)命をまつる。《日本書紀》《古語拾遺》などによれば,天日鷲命は阿波国忌部氏祖先神で,この地に穀麻を植えたと伝えられ,麻植(おえ)神ともいわれる。神武天皇のとき,忌部宮としてまつられたと伝えるが創祀は不詳。《延喜式》には名神大社と記されているが,のち兵火によって社殿が焼かれ社領も失い衰微していた。1871年国幣中社に列せられたが,当時忌部神社と称する神社が数社あったため社地が決まらず,75年麻植郡の天日鷲神社に決まったが,81年には美馬郡の五所神社に移された。しかしこの両地も確定できず地元の運動も強かったので,ついに新社地を選定,85年現在地に移った。例祭10月19日。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「忌部神社」の意味・わかりやすい解説

忌部神社
いんべじんじゃ

徳島市二軒屋町に鎮座。阿波(あわ)(徳島県)の忌部氏の遠祖、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀(まつ)る。祭神は、太古、穀木綿(かじゆう)を植え、製紙、紡績の業を興し、大功を現した神という。後世、その神徳をたたえて麻植神(おえのかみ)と称し、子孫は忌(斎)部を名のって国家の祭祀(さいし)に関与した。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社に列し、1871年(明治4)国幣中社となった。その後、遷祀され、85年に現社地に移った。例祭は10月19日。

[落合偉洲]

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百科事典マイペディア 「忌部神社」の意味・わかりやすい解説

忌部神社【いんべじんじゃ】

徳島市二軒屋町に鎮座。旧国幣中社。忌部氏の祖神の天日鷲(あめのひわし)命をまつる。同命は,この地方にカジノキや麻を植え,紡績を普及させたといわれるので麻殖(おえ)神ともいう。延喜式内の名神大社とされる。例祭10月19日。

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