大宮神社(読み)おおみやじんじや

日本歴史地名大系 「大宮神社」の解説

大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]岩出町宮

紀ノ川北岸近く、国道二四号沿いに鎮座する。祭神日本武やまとたける尊・素戔嗚すさのお尊ほか。旧郷社。岩出町のみや清水しみず大町おおまち高塚たかつか溝川みぞかわ高瀬たかせ西野にしの備前びぜん中迫なかぶさいばらもとの産土神で、古くは惣社権現社と称した。享保一四年(一七二九)の岩出組社方指出帳写(藤田家蔵)に記す永禄一〇年(一五六七)撰の岩出荘氏宮惣社権現由緒によれば、当社には熱田あつた大明神(本地仏薬師如来)と惣社権現(本地仏金蓮之三権現)が祀られており、熱田大明神は「往古之鎮守」、惣社権現は康治元年(一一四二)覚鑁が仏法擁護のために一千余社を勧請したものという。「紀伊国名所図会」によると、熱田大明神は尾張国から勧請し、上古は現社地の東の熱田森あつたのもりに鎮座していたのを中古この地に移したといい、旧地には清原きよはら明神祠があるという。神主熱田氏は尾張から勧請の時に従ってきたと伝える。また「続風土記」は惣社権現社のうち熱田大明神を「旧より此地に鎮り坐しゝ神ゆゑ岩手ノ里の神といひ伝ふ」と記しており、当社は熱田大明神が先に祀られ、のちに惣社権現が勧請されて成立したものと考えられる。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]かつらぎ町広口

広口ひろくちの東部、穴伏あなぶし川上流右岸にある。祭神は第一殿須佐男すさのお命、第二殿一言主ひとことぬし命・市杵島姫いちきしまひめ命・天忍穂耳あまのおしほみみ命・軻遇突智かぐつち命・応神天皇・大山祇おおやまつみ命・丹生都比売にうつひめ命・埴山姫はにやまひめ命・倉稲魂うかのみたま命、第三殿日本武やまとたける尊、第四殿誉田別ほんだわけ命・足仲津彦あしなかつひこ命・息長帯姫おきながたらしひめ命。雄略天皇の代の造営と伝える。旧村社。近世には大宮四社おおみやししや明神社と称し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷家蔵)には「四郷庄中氏神ニ而御座候、滝村・東谷村・平村・広口村右四ケ村」とみえ、当時一ノ宮に帝釈天、二ノ宮に葛城三尾かつらぎみお明神、三ノ宮に延大偈、四ノ宮に八幡を祀っていた。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]宇治田原町荒木

荒木あらき集落北東の山腹に鎮座し、祭神は天照あまてらす大神・大己貴おおなむち尊・瓊瓊杵ににぎ尊。旧村社。岩山いわやま鎮座の古社双栗さぐり天神社(宇治田原町)の「社伝記」によれば、宝亀元年(七七〇)勅命によって荒木の里大宮の地に天忍穂耳あまのおしほみみ尊・天津彦根あまつひこね命・活津彦根いくつひこね命の三神が遷宮され、荒木の産土神として大宮の社とされたとある。しかし別伝によれば大宮社は荒木・ごうくちの氏神として正安三年(一三〇一)に勅命により現在の祭神を遷座したものともいう。伝えによれば平治元年(一一五九)に乱によって社殿が炎上、岩本いわもとの地に仮宮を建立し正治元年(一一九九)にもとの地に遷座したとか、文治二年(一一八六)に源頼朝が神領を寄進したとかいわれるが不詳。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]越生町上野

大高取おおたかとり山の南東麓に鎮座。祭神猿田彦命・天津碓目命、旧村社。近世までは聖天しようてん社と称した。承和三年(八三六)の創建と伝えるが不詳。応永一〇年(一四〇三)六月五日銘の「聖天」の修理棟札が残り、神主は松王、檀那は毛呂氏とみられる因幡太郎持光・遠江守長隆・因幡次郎基行であった。文亀二年(一五〇二)四月一九日銘の再建棟札(風土記稿)には「奉再興武州入西郡越生郷上野村聖天宮」とみえるが、干支があわないので検討が必要である。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]東広島市志和町志和堀

志和しわ盆地北部、安駄あんだ山東麓に鎮座。祭神は市杵島姫など七神。旧村社。大同二年(八〇七)創建と伝え、志芳しわ庄地頭天野氏奉納の正平二〇年(一三六五)書写の大般若経(社蔵)の奥書に「志芳庄八幡宮」とみえる。天文一二年(一五四三)・同一四年・永禄二年(一五五九)・元亀四年(一五七三)の天野氏による社殿造営や什物寄進の棟札などが残る。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]盛岡市本宮 大宮

県道御所ごしよ仙北町せんぼくちよう線の北側にある。祭神は豊受皇大神。旧郷社。社蔵の鰐口には応永一二年(一四〇五)一二月吉日と紀年銘があり、「奥州岩手郡中野郷大宮鐘 願主田村俊宅敬白」と刻される。京都の田村俊宅が奉納したものと伝えられる。「御領分社堂」に「神明本社 三間四面 祠官吉田家鈴木伊予守 大宮豊受皇太神権現社」とみえ、坂上田村麻呂の建立と伝える。かつて大同二年(八〇七)銘と応永二年銘の鰐口があったが、天正一九年(一五九一)九戸政実の乱の際に紛失を恐れて埋隠したところ前者は行方不明となり、後者のみ残ったという(同書)


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]満濃町吉野 宮東

宮東みやひがしに鎮座し、祭神は倭姫命・事代主命ほか七柱を合祀する。旧郷社。社記によれば、延喜五年(九〇五)和気隆従が託宣に従って創建したという。旧称大宮(良野)大明神、天正の兵火によって焼失したと伝え、元和元年(一六一五)・延宝五年(一六七七)に社殿を改築している(棟札調)神宮寺鵜足うた長尾ながお村の石仏山浄土院佐岡さおか寺であった。鎌倉時代と安土桃山時代とされる木造狛犬各一対が保存されている。社叢三三二八平方メートルの大部分は照葉樹の大木に覆われ、県の自然記念物社叢に指定されている。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]高松市屋島中町

屋島南麓の屋島登山道西側に鎮座する。旧郷社、大宮八幡・高松八幡とも称する。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后、氏子は近世の屋島やしま村、東西の潟元かたもと村、新田しんでん(久本・公文を除く)古高松ふるたかまつ(古高松郷土誌)。社伝によれば、貞観元年(八五九)宇佐八幡神が山城おとこ山に遷宮のおり、屋島北浦の海上ではげしい風波にあいだんノ浦の入海に乗入れ、二夜三日滞留した。出船出御の際その跡に神幣三振を残したので、里人は板宮を建立して氏神と崇めたが人家少なく氏子も乏しいので、現在地に移し奉った。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]雫石町西根 大宮

平出ひらいで川に架かる大宮橋東岸にあり、祭神大山祇命・坂上田村麻呂。「御領分社堂」に「大宮村、大宮」とあり、この地は古く中野なかの村といったが、延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂が本陣とし、征討成就後岩鷲山田村たむら明神を建立、大きな社であったので大宮とよび、地名も変わったという。また神体は田村将軍と能気皇子の二体の木像と記される。享禄三年(一五三〇)大僧都平政久により再建。元禄二年(一六八九)野火で焼失、その後盛岡藩主南部重信により再建。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]山鹿市山鹿 大宮通

湯町の東南部に鎮座する。旧県社。祭神は景行天皇、阿蘇十二神を合祀する。近世は湯町の氏神であったが中村手永に属し、なか村の氏神でもあった。「国誌」所載の社記によると、景行天皇が茂賀もが浦の八頭の大亀とゆるぎ岳の賊徒を討伐した際の行宮跡に奉祀したのが起りとし、のち菊池則隆が阿蘇十二神を勧請、中村三六町を寄進したと伝える。勧請年代は不明であるが、境内一帯から出土する多くの須恵器が当社の古さを裏付ける。「鹿郡旧語伝記」によると天文元年(一五三二)と永禄一二年(一五六九)に山鹿彦次郎鎮安が社殿を再建したという。「国誌」には天正二年(一五七四)の社頭炎上を記す。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]久世町台金屋 宮脇

薬王やくおう寺の北にあり、祭神は大己貴命・素戔嗚命など。旧村社。古来大宮大明神と称し、「作陽誌」によれば、台金屋だいかなや大庭おおば平松ひらまつ(現落合町)三崎河原みさきがわら多田ただの五ヵ村が、大庭村の八幡宮(現八幡神社)とともに氏社としていた。境内東西二八間・南北六〇間。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]玉里村上玉里

上玉里かみたまりの台地上、字宮内みやうちにある。祭神は武甕槌命。旧村社。古くは鹿島明神と称したが、元禄九年(一六九六)藩主徳川光圀が領内巡視の際大宮大明神と改名、明治初期に現社名となる。創建年代は不明であるが、社宝に正嘉元年(一二五七)銘の鰐口(県指定文化財)が存在することからみて、古く創建された神社と思われる。天正一六年(一五八八)大掾・佐竹両氏の戦いで兵火のため炎上し、その後社殿は貞享元年(一六八四)に造営換えを行う(当社棟札)。江戸時代の神社の様子は「新編常陸国誌」に「神体木像長八寸、馬乗人形、前殿、神供所、鳥居アリ、社領五石三斗一升五合」と記される。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]能登島町曲

まがり集落を南東にみる丘陵に鎮座。祭神は大物主命。旧村社。江戸時代は曲村の産土神であった。鎌倉中期以前の木造男神坐像をはじめ、正中二年(一三二五)五月二三日、神主秦則安と金剛仏子教乗が造像したという背銘をもつ木造女神坐像を所蔵する。ほかに中世修験の本尊である木造蔵王権現懸仏および南北朝―室町期の木造男女神坐像・随身像一四体が遺存する。天正二年(一五七四)の社殿造立棟札(社蔵)によれば、対岸の中井なかい(現穴水町)月光院の院主が導師を勤め、神主は能登とあり、大工として鹿島郡於原の住人近間某がみえる。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]田野畑村 羅賀

羅賀らが集落の北部、旧浜街道脇の台地にある。天照大神・大宮比売神を祀る。旧村社。社伝によれば、北畠顕家石津いしづ(現大阪府堺市)で敗れたのち、女宮姫は郎従一名を伴い重囲を脱して当地に難を逃れ、父母供養のため一祠を建立、大宮比売神の像を刻んだ母形見の宝鏡を祀ったのが始まりという。享保二年(一七一七)九戸の大沢礼助らが現在地に社宇を建て大宮山神社と称し、盛岡藩九代藩主南部利雄の崇敬を受け、明和元年(一七六四)には野田代官所の援助によって社殿を修復、羽黒派修験栄福院が別当として奉仕した。


大宮神社
おおみやじんじや

[現在地名]玉造町乙

馬場ばばの台地にあり、祭神は武甕槌命・瓊瓊杵命。旧村社。社伝では和銅六年(七一三)以前の鎮座で、元暦元年(一一八四)玉造憲幹が社殿を造営したという。文政一〇年(一八二七)九月に社殿を焼失、現社殿は嘉永三年(一八五〇)八月の造営。「新編常陸国誌」に「大宮明神、社殿ハ芦葺ニテ、高一丈一尺、表一尺五寸、妻八尺三寸、神体ハ幣、前殿ハ長五間、横二間、社領ハ七斗八升二合ナリ」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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