桃山時代に始まる岐阜県の美濃焼(みのやき)の一作風で、長石釉(ゆう)(白釉)をかけた陶器の総称。長石に灰を加えた白釉が美濃焼で焼かれ始めるのは室町時代末期(16世紀中葉)とする説もあるが、長石単味の白釉が登場するのは桃山時代前期、天正(てんしょう)から文禄(ぶんろく)にかかる1580~90年代ではないかとする説が有力となりつつある。
美濃焼は瀬戸焼から分派して成立した窯であるが、瀬戸焼が茶入れや茶壺(ちゃつぼ)に主力を傾けていた桃山時代に、新興のわび茶の世界でにわかに造形の魅力を問い始めた時代相を背景にして、茶碗(ちゃわん)、花入れ、水指(みずさし)、香合(こうごう)、香炉、そして食器類に創意を発揮したのが志野焼であった。当時すでに中国製の白磁や染付が全国的に広まっていたが、美濃窯は白釉を創始することにより、磁器の冷徹な味わいを離れた、和様の雅陶をつくりだしたのである。まず鉄絵の具を用いて釉下に文様を描くいわゆる絵志野が考案され、鉄分の多い鬼板(おにいた)を白素地(しろきじ)全面に塗りつぶしてから、文様を掻(か)き落として白釉を施す赤志野と鼠(ねずみ)志野、そして鬼板のかわりに黄土を用いる紅(べに)志野などの多彩な加飾法が案出されて、桃山ならではの当意即妙の文様を表した。なお桃山後期に流行する織部焼(おりべやき)の作風に近い絵志野は、俗に志野織部とよばれている。
こうして江戸前期の17世紀まで志野は焼造されたが、1678年(延宝6)に瀬戸を訪れた土佐尾戸焼の陶工森田久右衛門(きゅうえもん)は、美濃窯に触れて、白い焼物が焼かれていることを記しながらも、直接には足を向けていないことからもわかるように、江戸時代に入るとその人気、作風は急速に低落した。
志野焼の代表的な窯場としては、岐阜県可児(かに)市の牟田洞(むたぼら)、窯下(かました)、土岐(とき)市の久尻元屋敷(くじりもとやしき)、大富(おおとみ)、定林寺(じょうりんじ)、高根(たかね)の諸窯があげられる。また代表作としては、志野茶碗では「卯花墻(うのはながき)」(国宝)と「羽衣」の銘をもつものが双璧(そうへき)であり、志野芦絵水指(あしえみずさし)銘「古岸(こがん)」(重要文化財、東京・畠山(はたけやま)記念館)、鼠志野鶺鴒文鉢(せきれいもんばち)(重要文化財、東京国立博物館)、鼠志野柳文平鉢(やなぎもんへいはち)(東京・サントリー美術館)などがとくに名高い。
[矢部良明]
『林屋晴三編『日本の陶磁2 志野』(1974・中央公論社)』
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桃山時代の美濃焼で作られた白釉陶。志野焼という窯場はない。美濃焼は天正年間,中国景徳鎮(けいとくちん)窯の白磁を手本に長石を使って白釉陶を創案。これに着目して茶人が茶道具を作らせた。文献では「松屋会記」天正14年(1586)条に「セト白茶碗」とあるのが初出。考古学的にもこの時期をさかのぼらない。当初は瀬戸焼と称し,志野の文字は江戸中期になって付与され,近衛家熙(いえひろ)の「槐記(かいき)」にはじめて認められる。その作風により無地志野・絵志野・鼠(ねずみ)志野,赤志野・紅(べに)志野・練込み志野・志野織部(おりべ)などに分類される。江戸初期で絶え,江戸後期に瀬戸焼が復興した。
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