岐阜県多治見市,土岐市,瑞浪(みずなみ)市,可児(かに)市など,東濃西部一帯で焼かれている陶磁器の総称。現在,全国の陶磁器生産の約20%を占め,瀬戸に次いで産額を誇っている。その源流は7世紀代に始まった須恵器生産にあるが,平安時代中期には愛知県猿投(さなげ)窯の影響を受けて白瓷生産を,平安末から室町中期にかけて白瓷系陶器(山(やま)茶碗)を,室町前期からは古瀬戸系施釉陶器を焼いており,広義の猿投窯系陶器の一分枝とみることができる。狭義の美濃焼は瀬戸黒,黄瀬戸,志野,織部などを焼いた室町末~桃山時代以降の陶器を指しており,当時の茶会記をみると,天文・弘治年間(1532-58)の〈天目 美濃〉〈天目 濃州〉の記載から,永禄(1558-70)以後〈セト茶碗〉〈セト水指〉などと瀬戸の名を冠して呼ばれるようになり,江戸時代に入ると尾張藩の統制下におかれて瀬戸焼として扱われた。〈美濃焼〉の名称が文書に登場するのは1832年(天保3)からである。
狭義の美濃焼の流れについて略述すると,古瀬戸系施釉陶窯が土岐市南部から西山丘陵に沿って出現してくるのは,室町時代に入ってからである。15世紀代のうちに8基の窯が相次いで築かれているが,16世紀に入ると瀬戸に続いて半地上式大窯に転換し,明の青磁・白磁を写した新製品を焼き始めた。美濃大窯は小名田窯下1号窯,妙土窯,定林寺東洞1号窯,浅間窯,牟田洞窯の5期の変遷がみられる。いずれも灰釉,鉄釉を用いた日常食器類の生産を基本としているが,第2期には銅緑釉が,第3期には瀬戸黒が,第4期には黄瀬戸が生まれ,第5期にいたって高火度焼成の灰志野釉から長石単味の志野(志野陶)が完成された。この一連の動きは,珠光から紹鷗を経て利休にいたる茶の湯の流行と対応した茶陶の展開を示している。16世紀末,慶長初年に加藤景延によって唐津から導入された連房式登窯(久尻元屋敷窯)では日常食器類の量産化が計られるとともに,大名茶人古田織部の指導によって織部焼(織部陶)が登場し,桃山陶芸に新生面を開いた。しかし1615年(元和1)の織部没後,遠州,宗和と続く新しい茶の湯の指導者の好みによって,茶陶の中心は京焼などへ移り,織部焼は急速に衰退に向かった。
江戸時代の美濃は天領および10藩40旗本に細分統治されたが,幕藩体制が強化される中で,小里氏,妻木氏の断絶,久々利(くぐり)九人衆の尾張移住などによって窯業の保護者を失い,尾張藩の統制下に置かれた。江戸時代の美濃焼の主製品は青磁や白磁を指向した御深井(おふけ)を中心とする大衆向けの日常食器類である。しかし,元禄年間(1688-1704),生産の上昇に危機を感じた瀬戸の上訴によって窯株規制を受け,24窯という厳しい統制が行われた。江戸中期には36窯に増加し,土岐川南部の良土が採掘されるようになって,炻器(せつき)質の本業物が焼かれるようになり,1804年(文化1)には半磁製の太白焼が生まれたが,07年の瀬戸における磁器焼造に続いて美濃でも磁器生産(新製染付)が始まった。以後,幕末にかけて美濃各地にそれぞれ特色ある窯業が興隆し,安政年間(1854-60)には本業株46,新製株21,新窯株40,製陶業587,製土業172を数えるにいたっている。明治に入って幕藩体制の崩壊による一時的な混乱をみたが,政府の陶磁器産業の振興策により名古屋を中心とする近代化の波に乗って,輸出用上絵磁器を軸に急速に生産の上昇をみた。明治末年には,瀬戸とともに有田,京都を凌駕し,陶磁器産業の中核的位置を形成したが,1930年荒川豊蔵による大萱牟田洞(おおがやむたぼら)窯の発見を契機に,黄瀬戸,瀬戸黒,志野,織部などの桃山茶陶の復興への胎動が始まった。伝統産業としての美濃焼の今日の隆盛は,荒川の力に負うところが大きい。
執筆者:楢崎 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
岐阜県南部一帯の、かつての美濃国で焼成された陶磁器の総称。狭義には室町後期の15世紀に始まる瀬戸黒(せとぐろ)、黄瀬戸(きせと)、志野焼、織部(おりべ)焼などをさす。源流は、古墳時代に美濃須衛(すえ)窯(岐阜市、各務原(かかみがはら)市)が開かれ、須恵器(すえき)が焼かれたことに始まる。平安中期の10世紀ごろには、灰釉(かいゆう)や緑釉をかけた施釉陶が多治見(たじみ)の窯(かま)で焼かれ、尾張(おわり)(愛知県)の陶技の余波を受けて美濃窯も灰釉陶の産地として復活した。平安末期から室町時代にかけてこの灰釉陶系陶器(山茶碗(ちゃわん))は今日の多治見、土岐(とき)の両市に広がり、室町前期からは古瀬戸系施釉陶器が焼造された。
室町中期の15世紀になると、この地方は瀬戸焼の傘下に入り、穴弘法(あなこうぼう)窯、妻木(つまぎ)窯などが勃興(ぼっこう)、大窯(おおがま)とよばれる新形成の窯で、輸入中国陶磁に倣った灰釉陶や黒釉陶を生産し始めた。桃山時代になると、牟田洞(むたぼら)、窯下(かました)窯、中窯(なかがま)(いずれも可児(かに)市)などで、有名な志野、黄瀬戸の製品がつくられたが、この新製品は主としてわびの茶具(水指(みずさし)、花いけ、茶碗、懐石道具など)で、桃山時代の創造性をみごとに開花させた。
桃山後期には元屋敷窯(土岐市久尻(くじり))が開かれ、緑釉と鉄絵を組み合わせたいわゆる織部陶が創造され、桃山陶芸に新生面を開いた。その後、灰釉が洗練開発されて御深井(おふけ)釉ができ、江戸初頭の新しい茶風にこたえたが、すでに時の主流としての声価は受けず、窯は一挙に地方化していった。江戸時代の美濃地方の陶窯は、土岐、多治見、可児、瑞浪(みずなみ)の各市に広がり、江戸後期の19世紀前半には磁器の焼造も始まり、美濃各地にそれぞれ特色ある窯業が興隆した。
明治に入って近代化の波にのり、輸出用磁器を軸に急速に生産も伸びた。昭和に入って荒川豊蔵(あらかわとよぞう)により桃山茶陶の復興が提唱され、今日の伝統産業としての隆盛をみている。
[矢部良明]
『楢崎彰一編『日本陶磁全集9 瀬戸・美濃』(1976・中央公論社)』▽『『世界陶磁全集5 桃山2』(1976・小学館)』
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
…市域の大部分は丘陵地で平地に乏しい。古くから美濃焼の産地として知られ,元屋敷陶器窯跡(史)などの古窯跡が残る。明治以降,とくに中央本線の開通後は陶磁器の生産が活発となり,一大生産地帯に発展した。…
※「美濃焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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