慈尊院(読み)ジソンイン

デジタル大辞泉 「慈尊院」の意味・読み・例文・類語

じそん‐いん【慈尊院】

和歌山県伊都郡九度山町にある高野山真言宗寺院。山号は万年山。空海弘法大師)が高野山を開創したとき、参拝要所にあたるこの地を表玄関として高野山一山の庶務を司る政所まんどころを置いた。承和元年(834)空海の母が政所を訪れるが、翌年入滅。空海はここに廟堂びょうどうを建立し、弥勒菩薩を安置した。弥勒菩薩は国宝。平成16年(2004)「紀伊山地霊場と参詣道」の一部として世界遺産文化遺産)に登録された。

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日本歴史地名大系 「慈尊院」の解説

慈尊院
じそんいん

[現在地名]九度山町慈尊院

慈尊院集落の南東部にあり、万年山慈氏じし寺と号し、本尊弥勒菩薩(寛平四年在銘)。現在は高野山真言宗の寺院であるが、平安時代には高野山が山麓に設けた政所(家政機関)が当地にあり、のち政所のなかにあった慈尊院をもってその総称とした。そのため史料に出る慈尊院は、寺院であると同時に政所の総称とされる場合がある。「続風土記」も「弘仁七年弘法大師高野山に伽藍を草創し、三冬の厳寒を避むか為に此地に一宇を結ひて高野山の政所と称し(中略)領内地方の支配をなす」と記す。また「此地の堂舎旧は紀ノ川側にあり、当院の北一町余に旧の下乗石あり、旧の南門の跡なりといふ、古の寺地今川床となる、下乗石より西一町許に率都婆石あり、旧の境内坤隅の榜示石なりといふ」とあり、古くは現在地より紀ノ川に近い所にあり、洪水の災を避けて天文年間(一五三二―五五)以前に現在地に移ったという。なお「続風土記」は現在地について「旧持経上人高野山の宝物を蔵めむ為に倉庫を築きし地にして、今の門土塀等は即古倉庫の外郭なりといふ」と記す。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔高野政所〕

平安時代の高野政所については、寛弘元年(一〇〇四)九月二五日の太政官符案(前田家本「高野寺縁起」)に「金剛峯寺去七月廿八日奏状(中略)寺家人跡遥隔雲霧難晴、日景鎮寒納物易損、仍本願(弘法)大師、山麓伊都郡家多村建政所舎庫蔵等、納置真言法文・衣鉢資具并仏聖具・修理料等雑物、三綱・小綱職掌丁等、申下官符免除臨時雑役、偏勤仕寺役」とみえ、この時の金剛峯こんごうぶ(現和歌山県高野町)の奏状によると、空海が高野山上の地理・気象条件を勘案して、高野山麓の「家多村」に政所を建て、そこに聖教仏具・修理料などを納め置くことにしたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈尊院」の意味・わかりやすい解説

慈尊院
じそんいん

和歌山県伊都(いと)郡九度山(くどやま)町にある高野山(こうやさん)真言宗の別格本山。万年山(まんねんざん)と号する。弘法(こうぼう)大師(空海)が高野山開創のとき、高野山への要所にあたるこの地を建設の基地として一宇を建立、また高野山一山の庶務をつかさどる政所(まんどころ)を置いた。834年(承和1)大師の母が讃岐(さぬき)(香川県)より当地に移り住み、翌年2月に入滅したため、大師はここに廟堂(びょうどう)を建立し、弥勒(みろく)慈尊を安置し、母の法号慈尊院をとって当寺の院号とした。本尊の弥勒菩薩(ぼさつ)(秘仏、国宝)は平安初期の彫像。三間四面宝形造(ほうぎょうづくり)の弥勒堂は鎌倉後期の再建で国の重要文化財である。

[野村全宏]

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