漁業の網漁具のうち、引網類の一種で、小型機船底引網漁業に属する。船上に帆を張り、または海中に潮帆(しおほ)を張って風力または潮流によって船を横に移動させたり(船首と船尾を結ぶ線とほぼ直角の方向への移動)、底引網を引航して行う漁法である。前者は帆打瀬網(風打瀬網ともいい、季節的な風物詩として写真などでよく目にする霞ヶ浦(かすみがうら)のワカサギ漁などが有名)とよばれ、後者は潮打瀬網とよばれる。そのほかに人力で櫓(ろ)を漕ぐ櫓打瀬網(漕ぎ打瀬網)などがある。漁場は湖沼や内湾で、底質が砂泥で平坦な場所を引く底引網である。船首と船尾に張り出し竿(ざお)を張り出し、その先端に引綱、袖(そで)網、袋網を取り付けて引網する方法で操業を行う。漁獲対象は、遊泳力の弱いワカサギ、エビ類、カレイ類、カワハギ、イカなどである。網口開口装置を有しないもの、網口にビーム(梁(はり))を有するもの、網口に桁(けた)を有する桁網などの漁具を使用するものもある。この漁業は通常、漁場の往復には動力を用いるが、操業には動力を用いないので生産性が低い。そのため徐々に動力を用いる手繰(てぐり)網に転換する漁業者が多く、漁法としては衰退している。
[添田秀男]
手操網(てぐりあみ)から進歩した底引網の一種。網を引くには人力の代りに風力や潮力を利用した。主要なものは風力利用の打瀬網で,帆力によって船を横に走らせながら,水底に入れた漁網を引き回し,それから漁網を引き揚げるものであった。潮力利用のときは水中にむしろや古帆の類を垂下したりして,それに潮流を受け,その力で水底の漁網を引いた。打瀬網がいつごろから使用されだしたものであるか明らかではないが,和泉岸和田地方のそれは宝永年間(1704-11)の創業であるといわれている。このように江戸時代中・末期にしだいに開発普及されたものであるが,本格的普及は沖合漁業が着目されるようになってくる江戸時代末期から明治期以降のことではなかったかと思われる。
明治期になって打瀬網の普及が盛んに行われたことは,その禁止や制限を行おうとする県が多くなったことで知られる。打瀬網は能率的な沖合操業の可能な網として注目された反面,延縄(はえなわ)その他の漁業の妨害となり,幼魚乱獲,漁場荒廃などの原因になるとして,非難の対象ともなったからである。1897年には静岡,愛知,三重,和歌山,広島,山口,徳島,香川,愛媛,高知,福岡,大分の12県で,打瀬網の禁止や制限の布達が出されていた。その後石油発動機による漁船動力化が実現し,まもなく底引網漁業も動力化されるようになった。すなわち1913年茨城,島根両県下でそれぞれ独自に動力化が達成されてから,打瀬網は急速に機船底引網に置き換えられ,全国的にみて機船底引網漁業が代表的な沖合漁業の一つに発達するようになった。このようにして打瀬網は底引網の首座から降り,しだいにその比重を小さくしていき,現在では霞ヶ浦の帆引網など一部にしか残存しなくなった。
→底引網漁業
執筆者:二野瓶 徳夫
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…それらを使用するには網を水底におろして引綱を伸ばし,錨をおろして船を固定させたうえで,引綱をとって網を引きよせるもの(手操(てぐり)網),風力や潮流の力などを利用し船を走らせて網を引きまわすもの(打瀬(うたせ)網)などがあった。打瀬網は幕末期や明治期に大いに普及するようになった能率漁網として注目され,手繰網より改良されたものと思われる。手繰網の開発がいつかは不明であるが,引網類よりは遅かったとみてよい。…
…これらはいずれもなんらかのくふうで網を引くときに網口を開くようにしている。オッタートロール,機船底引網,打瀬(うたせ)網,桁網などがある。カレイ・ヒラメ類などの底魚や貝類,また底層・中層を群泳するアジ,タイ,イカ類,エビ類などがおもな漁獲対象である。…
※「打瀬網」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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