斎藤緑雨(読み)サイトウリョクウ

デジタル大辞泉 「斎藤緑雨」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐りょくう【斎藤緑雨】

[1868~1904]小説家評論家。三重の生まれ。本名、まさる。別号、正直正太夫など。仮名垣魯文に師事。鋭い風刺を含む批評で知られた。小説「油地獄」「かくれんぼ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「斎藤緑雨」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐りょくう【斎藤緑雨】

  1. 小説家、批評家。本名賢(まさる)。別号正直正太夫。三重県出身。仮名垣魯文に師事して戯作(げさく)を学び、とくに風刺的、諧謔的な批評と奇行で注目された。小説「油地獄」「かくれんぼ」、戯作評論「小説八宗」。慶応三~明治三七年(一八六七‐一九〇四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤緑雨」の意味・わかりやすい解説

斎藤緑雨
さいとうりょくう
(1867―1904)

評論家、小説家。慶応(けいおう)3年12月31日、伊勢(いせ)神戸(かんべ)(三重県鈴鹿(すずか)市)の生まれ。本名賢(まさる)。別号江東みどり、正直正太夫(しょうだゆう)、登仙坊など。明治法律学校(明治大学の前身)中退。俳諧(はいかい)を其角堂(きかくどう)永機、小説を仮名垣魯文(かながきろぶん)に学ぶ。『今日(こんにち)新聞』を振り出しに、『東西新聞』『国会』『二六新報』『萬朝報(よろずちょうほう)』など多くの新聞ジャーナリズムを渡り歩く。1889年(明治22)『小説八宗』により文壇に登場、以後戯文批評に才筆を振るい、『初学小説心得』『小説評註(ひょうちゅう)問答』『新体詩見本』などで文壇人を揶揄嘲笑(やゆちょうしょう)し、さらに96年、森鴎外(おうがい)、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌『めさまし草』に掲載、「評壇最高の権威」(松本清張)として重きをなした。一方、うぶな男の色道修行の悲劇を描いた『油地獄』(1891)や、花柳界における恋のさや当てのなかを巧みに遊泳する青年を描いた『かくれんぼ』(1891)により小説家としての地位確立、ほかに『門三味線』(1895)などがあるが、小説家としての才より辛辣(しんらつ)かつシニカルな風刺家として知られた。軽妙な文章とパロディー精神は明治文壇にあって異彩を放ち、「按(あん)ずるに筆は一本也(なり)、箸(はし)は二本也。衆寡敵せずと知るべし」は一代の名句。著書にはほかに『あま蛙(がえる)』(1897)、『あられ酒』(1898)、『わすれ貝』(1900)、『みだれ箱』(1903)などがある。明治37年4月13日没。

[石崎 等]

『『明治文学全集28 斎藤緑雨集』(1966・筑摩書房)』『橋爪政成著『斎藤緑雨』(1964・九州文学社)』


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20世紀日本人名事典 「斎藤緑雨」の解説

斎藤 緑雨
サイトウ リョクウ

明治期の小説家,評論家,随筆家



生年
慶応3年12月30日(1868年)

没年
明治37(1904)年4月13日

出生地
伊勢国神戸(現・三重県鈴鹿市)

本名
斎藤 賢(サトウ マサル)

別名
別号=正直正太夫,江東 みどり,真猿,緑雨酔客,登仙坊

学歴〔年〕
明治法律学校中退

経歴
神戸藩(現・鈴鹿市)典医の長男に生まれ、8歳の時一家で上京。明治17年「今日新聞」の編集に携わり仮名垣魯文に認められ、18年「自由之燈」記者となる。17年「初夏述懐」を発表し、19年初めて小説「善悪(ふたおもて)押絵羽子板」を発表。22年正直正太夫の名で「小説八宗」を著し、批評家デビュー。以後小説、評論の面で幅広く活躍。29年森鷗外・幸田露伴と合評「三人冗語」を開始、30年代には「おぼえ帳」などの随筆や「眼前口頭」などのアフォリズムに新しい作風をもたらした。37年自作の死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去仕候間比段広告仕候也」を残して死去。「あま蛙」「かくれんぼ」「油地獄」「門三味線」などの作品がある。「斎藤緑雨全集」(全8巻 筑摩書房)が刊行されている。平成4年斎藤緑雨文学賞が創設された。

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改訂新版 世界大百科事典 「斎藤緑雨」の意味・わかりやすい解説

斎藤緑雨 (さいとうりょくう)
生没年:1867-1904(慶応3-明治37)

明治期の批評家,作家。伊勢国神戸(かんべ)(現,三重県鈴鹿市)生れ。本名賢(まさる)。別号正直正太夫(しようじきしようだゆう)。明治法律学校中退。最初は仮名垣魯文(かながきろぶん)門下の戯作者として出発したが,1889年,坪内逍遥,二葉亭四迷らの文章のパロディ《小説八宗》を発表,以後《初学小説心得》(1890),《新体詩見本》(1894)など多数のパロディによって,風刺的諧謔的な独特の批評を展開し,毒舌家として知られた。作家としては《油地獄》《かくれんぼ》(ともに1891)が代表作で,花柳界を舞台に〈色〉の海に漂う人間の姿を冷笑的に描くのが彼の本領だった。96年からは《めさまし草》の匿名合評,〈三人冗語(さんにんじようご)〉〈雲中語〉でも活躍したが,その濃厚な江戸趣味のためしだいに時流からはずれ,《あられ酒》(1898),《わすれ貝》(1899)などに収録されたおびただしい数の警句・箴言(しんげん)で当代の野暮や無秩序をののしり,有名な自筆の死亡広告を残して肺結核で死んだ。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「斎藤緑雨」の意味・わかりやすい解説

斎藤緑雨【さいとうりょくう】

明治期の小説家,評論家。本名賢(まさる)。別に,江東みどり,正直正太夫(しょうじきしょうだゆう)の筆名がある。伊勢国生れ。明治法律学校(明治大学)中退。仮名垣魯文に師事,小説《油地獄》《かくれんぼ》等を書いた。1889年,坪内逍遥二葉亭四迷らの文章のパロディ《小説八宗》を発表,辛辣(しんらつ)な風刺的批評,評論で知られ,1896年からは《めさまし草》の匿名合評〈三人冗語〉などで鴎外,露伴らと鋭い文芸時評を展開した。《万朝報》その他の新聞雑誌で活躍。早逝した樋口一葉を惜しむ気持ちは強く,博文館刊行の《一葉全集》を校訂した。
→関連項目小杉天外

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朝日日本歴史人物事典 「斎藤緑雨」の解説

斎藤緑雨

没年:明治37.4.13(1904)
生年:慶応3.12.30(1868.1.24)
明治時代の小説家,評論家。本名賢,別号江東みどり,正直正太夫,登仙坊など。伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)の生まれ。少年時代は幼友達の上田万年と筆写回覧雑誌を出し,文才を示した。長じて仮名垣魯文に認められ,『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆,坪内逍遥,幸田露伴,森鴎外らとも相識った。本格的な批評は『小説八宗』(1889)からで,当時の作家を見事に裁断,『初学小説心得』『正直正太夫死す』(ともに1890年)も,パロディ精神旺盛である。明治24(1891)年に小説『油地獄』を『国会』に,『かくれんぼ』を『文学世界』に書き,力量を示す。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など,思わず息をのむ。『門三味線』(1895)などの小説も書くが,決して生活は楽ではなかった。鴎外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加。樋口一葉ともわずかだが交友があった。一葉没後の『一葉全集』は,緑雨の校訂。『万朝報』に『眼前口頭』(1898~99)を書き,「按ずるに筆は一本也,箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(『青眼白頭』1900)と意気をしめす。転居を繰り返し本所横網町で病没する直前,友人馬場孤蝶に,「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」という広告文を口述した。世を斜に見るその営為に,近年評価が高まっている。

(中島国彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤緑雨」の解説

斎藤緑雨 さいとう-りょくう

1868*-1904 明治時代の小説家,評論家。
慶応3年12月30日生まれ。仮名垣魯文(かながき-ろぶん)に師事し,明治24年「かくれんぼ」「油地獄」を発表。また「今日新聞」「東京朝日新聞」「万朝報」などで辛辣(しんらつ)な風刺的批評,評論を執筆した。明治37年4月13日死去。38歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。明治法律学校(現明大)中退。本名は賢(まさる)。別号に江東緑,正直正太夫。評論に「小説八宗」など。
【格言など】按ずるに筆は一本也箸(はし)は二本也。衆寡敵せずと知るべし(「青眼白頭」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤緑雨」の意味・わかりやすい解説

斎藤緑雨
さいとうりょくう

[生]慶応3(1867).12.31. 伊勢,神戸(かんべ)
[没]1904.4.13. 東京
小説家,評論家,随筆家。本名,賢 (まさる) 。筆名はほかに江東みどり,正直正太夫など。初め法律を志したが,のち仮名垣魯文に師事して文学に向った。坪内逍遙,二葉亭四迷,尾崎紅葉ら当時の文壇の代表作家を揶揄した評論『小説八宗』で注目され,以後辛辣な風刺に富む独自の作風を開いた。江戸文学と近代文学の接点にいた作家で,小説『油地獄』 (1891) ,『かくれんぼ』 (91) ,随筆集『青眼白頭』 (1900) などがある。

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367日誕生日大事典 「斎藤緑雨」の解説

斎藤 緑雨 (さいとう りょくう)

生年月日:1868年12月30日
明治時代の小説家;評論家
1904年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の斎藤緑雨の言及

【三人冗語】より

…森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。…

※「斎藤緑雨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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