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日ソ共同宣言 にっソきょうどうせんげん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日ソ共同宣言
にっソきょうどうせんげん

正式には「日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言」。 1956年7~8月の重光全権団,9月の松本全権団に続いて 10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団の交渉の結果,モスクワにおいて同月 19日に両国間で署名され,12月 12日発効した。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

日ソ共同宣言

第2次大戦の日本とソビエト連邦の戦争状態を終わらせ、両国の外交関係を回復させた。1956年10月19日に調印され、両国議会の批准承認を経て12月12日に発効した。領土問題については「外交関係回復後も平和条約締結交渉を続ける」「平和条約締結後に、ソ連は日本に歯舞群島色丹島を引き渡す」とされている。

(2016-10-05 朝日新聞 朝刊 4総合)

日ソ共同宣言

第2次大戦の日本とソビエト連邦の戦争状態を終わらせ、両国の外交関係を回復させた。1956年10月19日に調印され、両国議会の批准承認を経て12月12日に発効した。領土問題については「外交関係回復後も平和条約締結交渉を続ける」「平和条約締結後に、ソ連は日本に歯舞群島と色丹島を引き渡す」とされている。

(2016-10-05 朝日新聞 朝刊 4総合)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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デジタル大辞泉の解説

にっソ‐きょうどうせんげん【日ソ共同宣言】

昭和31年(1956)に調印された日本とソ連との間の共同宣言第二次大戦における両国間の戦争状態の終結、国交の回復、平和条約締結後に歯舞(はぼまい)群島色丹(しこたん)島を日本側に引き渡すことなどを規定。

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百科事典マイペディアの解説

日ソ共同宣言【にっソきょうどうせんげん】

第2次大戦における日本・ソ連間の戦争状態を終了させた宣言。首相鳩山一郎が1956年モスクワで調印。両国間の北方領土の主張が食い違い(北方領土問題),その結果平和条約締結を後日の問題としたが,この共同宣言により共産主義諸国との国交も再開した。
→関連項目共同宣言重光葵鳩山一郎内閣

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世界大百科事典 第2版の解説

にっソきょうどうせんげん【日ソ共同宣言】

日本の鳩山一郎首相とソ連のN.A.ブルガーニン首相によって1956年10月に発せられた共同宣言。サンフランシスコ講和会議以降も,平和条約が締結されなかった日本とソ連の間には,国際法上は第2次大戦における戦争状態がつづいていた。朝鮮戦争後,平和共存の時代に入り,ソ連における対日国交正常化の機運が高まった。当時,日本の保守政党は,鳩山を総裁とする民主党と吉田茂を総裁とする自由党に分立し,党人政治家としての鳩山は官僚政治家としての吉田に対抗,両者の対立点の一つは社会主義国との国交回復を含む自主外交の主張にあった。

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大辞林 第三版の解説

にっソきょうどうせんげん【日ソ共同宣言】

1956年(昭和31)、モスクワで締結された、日ソ間の共同宣言。これにより、両国間の戦争状態が終結し、国交が回復。賠償その他の戦争請求権の相互放棄などは合意をみたが、領土に関する両国間の主張がくいちがっていたため、平和条約締結には至らず、共同宣言の形をとり、平和条約の交渉は継続されることになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日ソ共同宣言
にっそきょうどうせんげん

1956年(昭和31)10月19日に署名され、12月12日批准書が交換されて発効した「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」。吉田茂内閣にかわって登場した鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣は、当時、ソ連との国交回復を外交方針に掲げ、1955年6月からロンドンで松本俊一(まつもとしゅんいち)代表とマリク代表との間で会談を開始せしめたが、領土問題で行き詰まり、1956年3月に無期休会となった。同年7月、モスクワで重光葵(しげみつまもる)外相とシェピーロフ外相との交渉が再開され、その結果、平和条約の締結を棚上げして、共同宣言に合意するに至った。その内容は、(1)戦争状態の終結、(2)外交・領事関係の回復、(3)国連憲章の原則、自衛権、内政不干渉の原則の確認、(4)日本の国連加入の支持、(5)日本人抑留者の送還、(6)賠償請求権の放棄などであるが、もっとも重要なのは平和条約と領土に関する部分で、宣言は「正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結交渉が継続される」こと、およびソ連が歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)を日本に「平和条約が締結された後、現実に引き渡す」ことを規定している。[石本泰雄]

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世界大百科事典内の日ソ共同宣言の言及

【共同宣言】より

…この場合は広義の条約の一種ということができる。たとえば,1956年の日ソ共同宣言などはそれにあたる。第2次大戦後における日本とソ連の国交回復に関して,本来ならば平和条約方式によるのが望ましかったわけであるが,最大の懸案事項であった領土問題について合意に至らず,この問題を棚上げしたまま,とりあえず国交を回復するために,正式の条約よりも軽便な方式である共同宣言という形式を採ることになったといえる。…

【河野一郎】より

…51年追放解除後,鳩山を擁して吉田茂長期政権打倒の争いを続け,54年末鳩山一郎内閣を実現させ,農相に就任。“河野執権”と称される実力者ぶりを発揮し,56年10月の日ソ共同宣言調印の立役者となった。岸信介・池田勇人の歴代政権でも経済企画庁長官,自由民主党総務会長,農相,建設相などを歴任した。…

【ソビエト連邦】より

…しかし,戦後の日本の知識層,学生の間では,ソ連社会主義の権威と文化的影響は決して小さくなかった。
[日ソ共同宣言]
 ソ連は対日講和条約の準備からは疎外され,日本はアメリカ陣営の一員として,51年9月,サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を結んだ。しかし,スターリン死後の国際情勢の変化の中で,日ソ国交回復交渉が始まった。…

【ロシア】より

…51年のサンフランシスコ講和条約の中で,日本は千島列島と南サハリンを放棄した。56年の日ソ共同宣言によって正式に国交は回復したが,その後いわゆる〈北方四島〉(歯舞(はぼまい),色丹(しこたん),国後(くなしり),択捉(えとろふ))の帰属について日本側は未解決を主張し,これを解決済みとするソ連(現ロシア連邦)側と対立して現在に至っている(〈千島列島〉の[北方領土問題]の項参照)。
[芸術と思想の大きな波]
 文化の面で日本にとくに大きな影響を及ぼしたのは,明治20年代から紹介されたツルゲーネフ,ドストエフスキー,トルストイらのロシア文学と,トルストイ,クロポトキンらの思想である。…

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