特殊銀行(普通銀行・特殊銀行)の一つ。勧銀と略称。1971年10月第一銀行と合併して第一勧業銀行(株)となった。銀行分業主義の理念に立つ松方正義は1881年(明治14)に日本銀行設立を建議した際,日本銀行を頂点とする商業金融機関とは別に,大衆の零細貯蓄を扱う貯蓄銀行,農工業のための勧業銀行の必要を説いた。この勧業銀行構想は,日清戦争後に日本勧業銀行,各府県の農工銀行,日本興業銀行として実現した。日本勧業銀行は,96年4月公布の日本勧業銀行法にもとづいて,97年6月に資本金1000万円で設立され,初代総裁には河島醇が任命された。〈農業工業ノ改良発達〉のために長期低利の不動産抵当貸付けをなすことを目的としたが,1902年に工業の長期資金供給機関として興銀が設立されたので,勧銀は農業の長期資金供給機関としての色彩を濃くした。資金は債券(勧業債券)発行により集めるものとし,債券発行を容易にするため,特別に割増金付債券の発行が許可された(現在第一勧業銀行が宝くじを取り扱うのはこの特権の名残である)。11年には勧銀法が改正され,都市の不動産金融にも進出できるようになった。また,各府県の農工銀行を窓口にして貸し出す代理貸付制度を通して,しだいに農工銀行を支配下に入れた。そして21年〈日本勧業銀行及農工銀行ノ合併ニ関スル法律(勧農合併法)〉が成立して,23年までに農工銀行19行を合併,44年までには4次にわたって46府県すべての農工銀行を合併した。1920年代の不況期には,勧銀は大蔵省預金部(のちの資金運用部)資金による救済融資の経由機関の役割を果たした。22年日本勧業証券(1967年角丸証券と合併して日本勧業角丸証券になる)を設立。30年代には政策金融が強化され,産業組合中央金庫経由または預金部直接貸付けが増大して,勧銀の地位は著しく低下した。太平洋戦争中には農業金融機関としての役割は後退し,貸付けの重点は工業に移り,実質的には普通銀行と変わらなくなった。45年10月,政府の第1回宝くじを発行。48年にGHQが特殊銀行廃止の方針を打ち出したときに,これまでの実態をふまえて普通銀行への転換の道を選択し,50年5月に普通銀行に移行した。
執筆者:浅井 良夫
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殖産興業政策推進の観点から明治10年代より構想されてきた特殊銀行として設立された金融機関の一つで、「勧銀」と略称された。日清(にっしん)戦争後の企業勃興(ぼっこう)期であった1896年(明治29)制定の日本勧業銀行法により翌97年2月に資本金1000万円で開業した。不動産担保による長期資金供給の専門金融機関としての性格をもち、長期低利による農業開発資金、地方公共団体の耕地・農道・水路などの整備・改良資金などの貸付が期待されていた。その運用資金は主として債券発行で調達されるものとされた。開業当初には紡績業への救済融資もあったが、耕地整理資金の供給など農業面へ貢献するところが大きかった。しかし、明治末年には殖産興業政策の性格を漸次喪失し、大正期にかけて市街地不動産金融が増大した。大正末から昭和初年にかけて不動産金融の資金化など救済金融機関化するが、この間、代理貸付制度を通して関係の深かった農工銀行との合併がしだいに進められた。第二次世界大戦中から預金銀行としての色彩を強くしていたが、戦後1948年(昭和23)にGHQ(連合国最高司令部)が特殊銀行廃止の方針を打ち出すと、50年5月に普通銀行に転換、71年10月には第一銀行と合併して第一勧業銀行となった。第一勧業銀行は2002年(平成14)4月、富士銀行、日本興業銀行と分割および合併し、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された。
[岡田和喜]
『大蔵省編『明治大正財政史 第15巻』(1938・財政経済学会)』▽『日本勧業銀行調査部編・刊『日本勧業銀行史』(1952)』
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第2次大戦前の特殊銀行の一つ。1897年(明治30)6月,前年公布の日本勧業銀行法によって設立された。農工業の改良発展をはかることを目的とし,おもに不動産抵当による年賦・定期貸付を行い,割増金つき勧業債券の発行による資金調達が認められた。日露戦時の貯蓄債券の発行など,しばしば公的金融機関として国策・救済融資を実行した。しだいに設立目的から離れ,第2次大戦時に実質的に普通銀行化を完了。この間1921年(大正10)以降各府県農工銀行をすべて合併し地方支店とした。50年(昭和25)普通銀行に転換,71年第一銀行と合併して第一勧業銀行となる。さらに2002年(平成14)富士銀行・日本興業銀行と合併して,みずほ銀行となった。
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…1900年前後にはまた,諸種の特殊銀行が整備された。すでに1880年2月貿易金融を目的とした横浜正金銀行(現,東京銀行)が開業していたが,不動産金融を目的として日本勧業銀行(現,第一勧業銀行)が97年8月,各府県農工銀行が97年11月から開業した。また1900年4月北海道拓殖銀行が北海道の開発金融機関として発足し,02年4月には日本興業銀行が長期工業金融を目的として開業した。…
…1890年代には早くも木造建築の技法によって造られた公共建築が出現する。奈良県庁舎(1895,長野宇平治),日本勧業銀行本店(東京,1899,妻木頼黄)などがそれであって,どちらもヨーロッパ風の配置とブロックの構成を基本にしつつ日本建築の技法とモティーフによって外観を構成したものであった。1910年,建築学会で〈我国将来の建築様式をいかにすべきや〉というテーマで討論会が行われたのは,西欧様式の移植がようやく定着しながらも,将来の様式的発展を展望できない悩みが建築界全体に重くのしかかっていたからにほかならなかった。…
…クレディ・フォンシエの成功に刺激を受けた各国は,同行をモデルに同種の金融機関を創設した。日本勧業銀行もその一つである。【権上 康男】。…
…1971年,第一銀行と日本勧業銀行(略称,勧銀)との対等合併により発足した銀行。略称,第一勧銀,一勧。…
…北海道は事情が異なるので,別に北海道拓殖銀行法が公布された(1899)。農工銀行は農工業のために不動産抵当で長期資金を貸し出す点では日本勧業銀行と同一だが,その他に土地を持たない小作人への融資の道も開いていた。しかし営業区域,株主が所在府県内に限定され,割増金付債券発行が認められなかったため,資金吸収の面では勧銀に比べ不利であった。…
※「日本勧業銀行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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