明光寺(読み)みようこうじ

日本歴史地名大系 「明光寺」の解説

明光寺
みようこうじ

明治四三年(一九一〇)吉塚よしづかに移転するまで東町上ひがしまちかみに所在。曹洞宗、大宝山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば永徳年中(一三八一―八四)開山の無雑融純が創建。その後乱世を経て廃退、小庵のみが残されていた。寛永五年(一六二八)一四世生雄宗誕が福岡藩二代藩主黒田忠之の母(大涼院)帰依を得て再興された。大涼院および同院の父(保科正直、建福院)・母(長源院)の墓所とされ、慶安元年(一六四八)忠之から寺領五〇石を寄進された。藩内曹洞宗寺院の触頭であった(続風土記・続風土記附録)

明光寺
みようこうじ

[現在地名]網野町字郷

ごう集落を東北に流れる福田ふくだ川左岸、岩倉いわくら山の東北麓にある。岩倉山と号し、高野山真言宗、本尊は十一面観音。

明光寺調文書(「竹野郡誌」所引)によると、大宝二年(七〇二)に行基が当地で十一面観音像を彫り、岩倉山の岩洞に安置し、里民が草堂を創建して明光寺と号したのに始まると伝える。その後、堂塔伽藍が完備し、領主も祈願所として田畑山林を寄進、屈指霊場となったが、数度の兵乱のため焼亡し、古記・文書類も諸伽藍とともに烏有に帰したという。

明光寺
みようこうじ

[現在地名]矢部町万坂

万坂まんざか集落東方の丘陵上にある。仏日山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。「国誌」によると、熊本延寿えんじゆ寺の末で、天正一七年(一五八九)菊池家末流赤星九郎兵衛、号して浄珍がとどろき村に開基

明光寺
みようこうじ

[現在地名]会津若松市門田町御山 館ノ内

御山おやま集落中にあり、日吉山と号し、天台宗。本尊不動明王。延元元年(一三三六)の草創と伝える説と(会津鑑)徳一の開基とする説(新編会津風土記)がある。境内の観音堂は室町時代末期の唐様古建築で、大堂を縮小して移築したものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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