《金光明最勝王経(最勝王経)》を講賛して教学の興隆を図るとともに,国家安穏と天皇の無事息災を祈願する法会。著名なものに毎年正月8日から14日の7日間にわたって行われた宮中大極殿の最勝会がある。これは宮中最勝会とか御斎会(みさいえ)と称せられ,《初例抄》では766年(天平神護2)より恒例化し,宮中での年中行事中,第一の大会といわれた。また薬師寺の最勝会は830年(天長7)6月薬師寺仲継の発議により当寺の教学興隆に資するため,檀主直世王の上奏により始められた。毎年3月7日から13日にわたって行われ,源氏の氏人が勅使となり下向したが,供料として播磨国賀茂郡の水田70町が充てられ,興福寺維摩会(ゆいまえ),宮中御斎会とともに南都三会(さんえ)の一つとして,官僧の登竜門となった。その後慧達,平超,常全などにより興隆整備され,《延喜式》主税式によると,供料は大和,近江国よりそれぞれ黒米60石をつき,その年の正月中に寺家に送られたという。維摩会,御斎会,最勝会の竪義(りゆうぎ)を終えた僧は得業(とくごう)といわれ,またこの三会の講師を果たした僧は律師に補任された。1445年(文安2)6月の薬師寺諸堂の大風による倒壊で,以後中絶するにいたった。一方,平安京円宗寺においても1082年(永保2)2月に最勝会が開始され,当寺の法華会と法勝寺の大乗会とともに北京三会と称して,南都三会に準じ,延暦,園城両寺で隔年勤修したが,鎌倉時代末に至り円宗寺の廃寺とともに廃絶した。《最勝王経》の盛行はすでに奈良時代からみられるが,最勝会のほか最勝講と称して,国家の安泰,天皇の長寿を祈願する法会が,1002年(長保4)から毎年5月の吉日を選んで5日間,宮中で釈迦を本尊とし毘沙門天,吉祥天を脇侍として,東大,興福,延暦,園城の4寺の学僧を招いて行われ,恒例化した。仙洞(せんとう)最勝講,法勝寺最勝講とともに三講の一つに数えられたが,南北朝期以後衰退した。
執筆者:堀池 春峰
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3月7日~13日の7日間、勅使(ちょくし)を迎え、護国の経典『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を講じ、国家の繁栄と皇室の安泰を祈る法会(ほうえ)。宮中で正月8日~14日に行われた最勝会は御斎会(ごさいえ)といわれ、768年(神護景雲2)に始まり、802年(延暦21)最勝会と維摩会(ゆいまえ)に六宗を請(しょう)じた。現在3月に行われる最勝会は830年(天長7)奈良薬師寺で始修。それは、興福寺維摩会、宮中御斎会とともに南京三会(なんきょうさんえ)と称され、三会を成し遂げた講師は僧綱(そうごう)に任ぜられる盛儀であった。1082年(永保2)京都円宗寺でも最勝会を催し、同寺の法華会(ほっけえ)、法勝寺(ほっしょうじ)の大乗会(だいじょうえ)とともに北京(ほっきょう)三会と称され、延暦寺(えんりゃくじ)と園城寺(おんじょうじ)で隔年に営まれた。北京三会ではまず僧綱に任じてから、三会の講師を勤めた。
[西山蕗子 2017年5月19日]
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…日本では598年(推古6)4月に聖徳太子が,諸王・豪族を集めて法華・勝鬘(しようまん)の2経の講義を行ったことが知られ,仏教の興隆流布とともに各種の法会が催された。経論の主旨を究明しようとした維摩(ゆいま)会,最勝会,唯識会,俱舎(くしや)会,華厳会,法華会をはじめ,国家の安泰を祈る仁王(にんのう)会,大般若会や,釈迦の入滅を追慕し報恩の意を表す涅槃(ねはん)会は,やがて一宗一寺の祖師信仰と結びついて,祖師の御影(みえ)像や堂を造って忌日に法事を行うにいたった。中世には祖先の追善冥福を祈る法会も一般化し,ときに斎(とき)(食事)の席を設けるなどして今日に至っている。…
※「最勝会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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