デジタル大辞泉
「三会」の意味・読み・例文・類語
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さん‐え‥ヱ【三会】
- 〘 名詞 〙 ( 連声(れんじょう)で「さんね」とも ) 仏語。
- ① 仏が成道後に衆生済度のために三回にわたって行なう説法。〔長阿含経‐一〕
- ② 彌勒菩薩(みろくぼさつ)が釈迦の入滅後五六億七千万年に兜率天(とそつてん)から人間界にくだって、龍華樹(りゅうげじゅ)の下で悟りをひらき、大衆のために三度、法を説くという説法の会座。龍華会。龍華三会。
- [初出の実例]「然れば彌勒の出世の時、三会に得脱せらむ者は此釈迦の遺法(ゆいほふ)の中に一度南无と称し、一搏(にぎり)の食(じき)を施したる輩也」(出典:今昔物語集(1120頃か)四)
- ③ 南京(奈良)で行なわれた三大法会。興福寺の維摩会(ゆいまえ)、薬師寺の最勝会、宮中大極殿の御斎会(ごさいえ)の三つをいう。また、興福寺の維摩会と法華会に薬師寺最勝会を加えていう。奈良の三会。
- [初出の実例]「維摩・御斎・最勝是を三会といふ」(出典:観智院本三宝絵(984)下)
- ④ 北京(京都)の三大法会。天台宗における三つの大きな法会。円宗寺の法華会と最勝会、法勝寺の大乗会の三つをいう。〔釈家官班記(1355)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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三会
みえ
中世の高来東郷内にみえる地名。康永四年(一三四五)一〇月二七日の足利尊氏下文写(正閏史料二之一所収厚母文書)には「高来東郷内三会村」とみえ、当村の地頭職・預所職などが開田遠長に安堵されているが、両職は建武二年(一三三五)二月三日の譲状によって父資長(法名は行素)から相伝したという。戦国末期、龍造寺氏を阻止するため島津氏が島原半島に出兵、天正一二年(一五八四)三月二三日に「三重之町にて少々矢軍」があった(「上井覚兼日記」同月二四日条)。戦後、島津氏は島原・三会の両城を接収している(「一五八七年日本年報」イエズス会日本年報)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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三会
さんえ
三度にわたる法会(ほうえ)または3種の法会。「さんね」ともいう。日本の代表的三大勅会(三会)には南京(なんきょう)三会と北京(ほっきょう)三会がある。
(1)諸仏成道(じょうどう)ののち衆生済度(しゅじょうさいど)のため行われる3回の法会。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の龍華(りゅうげ)三会(または弥勒三会)は名高く、弥勒菩薩がこの世に下生(げしょう)して人々を救済するために行われるという法会で、仏滅後56億7000万年の未来に予定されている。
(2)南京三会。南都の三種大法会、すなわち興福寺維摩会(ゆいまえ)、宮中御斎会(ごさいえ)、薬師寺最勝会(さいしょうえ)を称する。維摩会は706年(慶雲3)始修、714年(和銅7)興福寺移修、834年(承和1)以後恒例の法会となった。御斎会は768年(神護景雲2)宮中で始修され、813年(弘仁4)以後内論義(うちろんぎ)が加えられた。最勝会は830年(天長7)薬師寺で始修された。宣下(せんげ)して三会で講師を勤めた者を僧綱(そうごう)に任ずるとして以来、三会は比肩するもののない盛儀となった。
(3)北京三会。京都法勝寺(ほっしょうじ)大乗会(だいじょうえ)(1077始修)、円宗寺法華会(ほっけえ)(1116)、同最勝会(1082)を称する。講師は南京とは別に、まず僧綱に任じられたのち三会を遂講するものとされた。
[西山蕗子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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三会
さんえ
諸仏が衆生を救うために法を説く三大説法会のこと。「さんね」とも読む。弥勒仏の三会は竜華 (りゅうげ) 三会ともいわれ,釈尊の教化に漏れた衆生を仏滅後 56億 7000万年後に現れて救済するという。また日本では南京 (なんきょう。奈良) および北京 (ほっきょう。京都) で行われた三大勅会をいう。禅宗では鐘または鼓を 36打つのを一会とし,これを3度繰返して 108打つのを三会と称する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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