本坂道(読み)ほんさかみち

日本歴史地名大系 「本坂道」の解説

本坂道
ほんさかみち

ひめ街道ともいう。東海道脇往還として御油ごゆで分れ当古とうご(ともに現豊川市)の渡で豊川を渡り、本坂峠を越えて浜名湖の北岸を通り、静岡県浜松市の市野いちので東海道に合する約六一キロの道である。もっとも遠江における東海道との分岐点については浜松宿とする説、見附みつけ宿(現静岡県磐田市)のやや西方とする説もある。

なお近世の正式の文書における名称は、本坂越・本坂通・本坂道・本坂海道などであって、一般に有名である姫街道の名称は現れない。姫街道の呼称は俗称であったが、その名称の起源については多くの諸説がある。すなわち近世において婦女子の往来が多かったからとし、その理由として、厳重な新居あらい(現静岡県)の関所を避けたためとするもの、舞坂まいさか(現静岡県)―新居間の今切いまぎれの渡の航海の危険を避けたためとするもの、今切の名が不吉であるとして避けたなどとする説がある。また古来から東海道の旧街道として「ひね街道」とよばれたのが転訛したとする説もある。

この道筋は古くからあったようである。大化改新後の東海道は豊川の河口志賀須賀しかすが渡を渡り、浜名湖の南岸を過ぎていたが、豊川河口の渡河の困難さや浜名湖南岸の浜名橋の断絶や猪鼻いのはな駅の荒廃(続日本後紀)などでこの道が選ばれたようである。史料のうえでは「続日本後紀」承和九年(八四二)七月二八日条に承和の変の結果「罪人橘逸勢、除本姓賜非人姓、流於伊豆国」とあり、伊豆へ配流の途中、逸勢は八月一三日に死去した(同書)。その地は「文徳実録」嘉祥三年(八五〇)五月一五日条に「逸勢行到遠江国板築駅、終于逆旅」とあって、現在の静岡県引佐いなさ三ヶ日みつかび町地内であったことから、橘逸勢の配所への道は明らかに本坂峠越の道であった。むしろこの当時は浜名湖南岸の猪鼻駅の廃絶のためにこの道が官道となり駅家が置かれていたこともあったようである。また建久二年(一一九一)成立の筥根山縁起によれば、箱根はこね神社の勧請者万巻が上京の途次弘仁七年(八一六)三河国楊那やな郡で没したとあり、この道を通行したことが推測される。また「万葉集」の防人に行く東人の東歌には、三ヶ日関係の地名が多いとの説(三ヶ日町史)や、同書の高市連黒人の二見ふたみの道はこの道をさすとの説(大日本地名辞書)もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「本坂道」の意味・わかりやすい解説

本坂道【ほんさかみち】

姫(ひめ)街道とも。東海道の浜松(はままつ)宿から浜名(はまな)湖北岸を迂回して,三河(みかわ)・遠江(とおとうみ)国境の本坂峠を越え,東海道の御油(ごゆ)宿に至る道。女性旅行者が今切(いまぎれ)渡し,新居(あらい)関を避けてこの道を利用したから姫街道といったとの俗説がある。
→関連項目宿村大概帳

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