本蓮寺(読み)ほんれんじ

日本歴史地名大系 「本蓮寺」の解説

本蓮寺
ほんれんじ

[現在地名]小松市細工町

細工さいく町通にあり、旧市街地へ向かって西面する。津波倉山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。藤島超勝ふじしまちようしよう寺の分流で、「反故裏書」によれば、本願寺六世巧如の弟頓円(鸞芸)は超勝寺を創建したが、室菅原氏と不和があり超勝寺を退き、加賀国粟津あわづに籠居。戸津とづに住坊を構え、次男蓮覚(周恵)をもうけ、その後住坊を本蓮寺と号したという。貞享二年寺社由緒書上では創建を文安元年(一四四四)とする。戦国前期頃と推定される一二月一九日の蓮如書状写(粟津家記録)は、本蓮寺御房(二代周恵か)に対し同寺門徒の乱妨狼藉の停止を命じている。寺蔵の親鸞絵伝の裏書によれば、同絵伝は文明一六年(一四八四)八月一四日本願寺蓮如が「加州能美郡下粟津本蓮寺常住物也」として蓮光(文明一七年に没した本蓮寺三代蓮恵のことか)に下付したもので、この頃下粟津にあった。しかし、永正一一年(一五一四)八月本願寺実如が蓮心(言恵)に下付した頓円絵像(寺蔵)の裏書には「粟津上保津波倉村本蓮寺」とあり、永正頃には津波倉つばくら村に移っていた。

本蓮寺
ほんれんじ

[現在地名]牛窓町牛窓 関町

法華宗(本門流)の名刹。山号は経王山。もとは京都本能寺と尼崎本興あまがさきほんこう(現兵庫県尼崎市)の両山末。本尊は諸尊勧請・中央首題。開山は本能寺門流の本行ほんぎよう院日暁、開基檀越は石原但馬守道高。寺地は瀬戸内海の古港である牛窓港を門前にのぞみ、内海の島々はもとより遠く讃岐の屋島やしま(現香川県高松市)を遠望し、景勝の地を占める。

延宝五年(一六七七)日進在住諸事覚書や、元禄一六年(一七〇三)の由緒書(ともに寺蔵文書、以下同)などによると、南北朝時代妙顕みようけん(現京都市上京区)二世の大覚が牛窓に留錫し法華堂を建立、のち本能寺開山日隆の弟子であった本行院の日暁が、当地に弘通して石原道高を教化し、道高を本願にして大覚創建の法華堂を再興したことにはじまるという。だが当寺の前身である「法花堂」の名が確実な史料に登場するのは、宝徳二年(一四五〇)である(同年九月日「市村隼人佐売寄進状」)

本蓮寺
ほんれんじ

[現在地名]長崎市筑後町

聖林山と号し、日蓮宗。本尊は多宝如来・釈迦如来。元和六年(一六二〇)大村本経ほんきよう寺の日恵を開山として創建された。寺地に元亀―天正年間(一五七〇―九二)サン・ジョアン・バプチスタ教会が建立されたが、慶長一九年(一六一四)幕命で大村藩の兵が動員されて破却され(長崎拾芥)、サン・ラザロ病院は元和六年まで残されたという。長崎五人僧の一人日恵が布教を始めた元和二年頃はなおキリシタンの勢力が残り、帰依する者は少なかったと伝える(長崎実録大成)。山号を聖林山としたのは日恵が幼少期に庇護を受けた聖林院(加藤清正の生母)の恩を忘れないためという。

本蓮寺
ほんれんじ

[現在地名]藤沢市片瀬三丁目

さかい(片瀬川)の左岸に位置する。龍口山と号し、日蓮宗。本尊は三宝諸尊・日蓮木像。本蓮寺縁起・本蓮寺過去帳(当寺蔵)によると推古天皇三年の創建、元暦年中(一一八四―八五)源頼朝が再建、嘉元二年(一三〇四)日秀が日蓮の当寺止宿にちなんで日蓮宗に改宗、中興再建するという。また改宗前は真言宗で、初め長塚山三輪さんりん寺、後に弥陀山大御堂源立寿げんりゆうじゆ寺と称したという。古くは仏来ふつらい院・円頓えんとん房・本光ほんこう坊の三院があった(風土記稿)

天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)が下され、慶長(一五九六―一六一五)徳川家康の小休所となり、天目台と茶入箱を与えられ、その縁由により慶安二年(一六四九)寺領七石の朱印状を受けた(相中留恩記略)

本蓮寺
ほんれんじ

[現在地名]津島市池麩町

本堂は天王てんのう通りに背を向けて接し、延享五年(一七四八)村絵図では麩屋町ふやんちよ筋の行止りにある。妙栄山と号し、法華宗陣門流。本尊は法華経題目宝塔。

吾妻鏡」文治元年(一一八五)七月七日条によると大橋氏の三世貞能は平家一族で、四世通貞の母は原大夫高春の女という。高春は同書元暦元年(一一八四)三月一三日条によると尾張国住人である。この縁で通貞の子一妙丸貞経が「尾張国愛知・海辺あまべ二郡ヲ領シ、法華経帰依ニヨリテ愛知郡中根なかね村ニ天台宗法華堂ヲ造立(中略)明徳三申年、大橋貞経ノ家臣末裔、志願ヲ発シ、中根村ノ法華堂ヲ今ノ地ニ移シ、日蓮宗ニ改、当寺ヲ造立ス、乃、一妙丸ノ栄曦ナル事ヲ称揚シテ妙栄山ト呼、法名ヲ要功トシテ本蓮寺ト号ス。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本蓮寺」の意味・わかりやすい解説

本蓮寺
ほんれんじ

岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町牛窓にある法華(ほっけ)宗本門流の寺。山号は経王山。本尊は宗祖奠定(てんじょう)の大曼荼羅。寺伝では、1338年(延元3・暦応1)に大覚(だいかく)大僧正(そうじょう)が在地の豪族石原氏の協力を得て、牛窓法華堂を建立したのに始まる。1438年(永享10)に、日蓮宗の僧日暁(にちぎょう)が訪れ、法華堂を再興、1458年(長禄2)に日隆(にちりゅう)が経王山本蓮寺の寺号を授けた。戦国時代に一時衰えたが、江戸時代には朱印寺領30石を寄付され、寺運を盛り返した。1492年(明応1)建立の本堂、および同じころの建立と推定される番神堂(ばんじんどう)と中門は国重要文化財である。

[水谷 類]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「本蓮寺」の解説

本蓮寺

岡山県瀬戸内市にある法華宗の寺院。江戸時代、朝鮮通信使の宿泊所となった。本堂、番神堂などが国の重要文化財に指定されている。

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