細工町(読み)さいくまち

日本歴史地名大系 「細工町」の解説

細工町
さいくまち

[現在地名]柳川市細工町

北を瀬高せたか町、南を出来でき町に接する南北の通りに沿った両側町町人地。北から一丁目―三丁目に区画される。二丁目と三丁目の間には堀があって橋が架けられ、二丁目側の橋の西側には「惣汲場」があった(「城下町図・瀬高町組」柳川古文書館収蔵)。町名の由来は、町別当松田縫殿が諸職人を集住させたことによるとされる(柳河明証図会)。また元和年間(一六一五―二四)立花宗茂が瀬高門をしん町に移設した際、箔屋町・白金町・笄町とあったものを細工町と改称したともいう(旧「福岡県史」)


細工町
さいくまち

[現在地名]甲府市北口きたぐち二丁目・武田たけだ一―二丁目

新紺屋しんこんや町の北に並行する東西の通りの町人地で、上府中二六町の一町。東は元城屋もとじようや町の一―二丁目の間、西はひろ小路に接する。中間で南北通りの元連雀もとれんじやく町と大工だいく町の間で交差して一丁目・二丁目を分ける。町名は寛文二年(一六六二)の古府中町数家数間数改帳(県立図書館蔵)にみえ、金具師(白銀師)・研屋(磨師)・鞘師など細工職人の居住に由来する。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると南側一八五間半・北側一七五間。


細工町
さいくまち

[現在地名]村上市細工町

かん町の西側家並のほぼ中央から西に向かって入る。寛永一二年(一六三五)の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)には「本加治町」とみえ、家数三四、うち六軒が無役であった。寛文七年(一六六七)から宝永元年(一七〇四)の榊原氏在城時の絵図(上越市立高田図書館蔵)に町名がみえる。町の中ほどに十字路がある。北に向かって安良あら町と合する道は、古くは茶子ちやのこ町と称され、宝永二年(一七〇五)の寺社旧例記(北方文化博物館蔵)には、家数七と記されている。幕末には細工町に統合されたらしい。嘉永二年(一八四九)の細工町の家数八二(「年行事所日記」村上市蔵)


細工町
さいくまち

[現在地名]高知市はりまや町二丁目・帯屋おびや町一丁目・追手筋おうてすじ一丁目

南は北種崎きたたねざき町、北は蓮池はすいけ町の間の南北筋の横町と、その中央北寄りで交差する、東は新市しんいち町、西は郭中かちゆう境の外堀に至る東西筋の縦町からなる。城下町建設当初より諸職人を集めて居住させたのでこの名がついたという。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西七九間、南北八三間、家数九一。

寛文九年(一六六九)の城下町絵図には町名はみえないが、横町にあたる地に大長だいちよう寺がみえ、「大長寺町」とある。天保一二年(一八四一)の城下町絵図には「サイク町」とある。外堀には当町西南部から郭中帯屋おびや町へ通ずる土橋が架かり、外堀東側に沿って南北に延びる横町を土橋つちばし町とよんだ。


細工町
さいくまち

[現在地名]中区大手おおて町一丁目

白神しらかみ一丁目の一本西側の縦町で、北は横町の猿楽さるがく町、南は西横にしよこ町、西は元安もとやす川に臨む。「知新集」は「もと小細工職の者数多住居せし故、かく名つくるか」と記す。白神組に属した。

元和五年広島城下絵図に町間数一町四間とあり、寛永二年広島町数家数改め(済美録)では「猿楽・細工町」として本家八七軒・借家一八二軒が記され、二つ合わせて一町扱いとする。「知新集」には町門一、町間数二丁六歩七厘三毛、竈数五八(本竈二一・借竈三七)、人数二四三(男一三五・女一〇八)、うち本道医二人、塗師などの職人計六人を記す。町内には城下第一の薬店といわれた世並屋市郎左衛門家、代々藩の勘定所御用聞を勤めた米屋忠左衛門家、天明年間(一七八一―八九)組頭役兼船年寄を勤め、のち勘定所御用聞・産物方筆頭、また町年寄にもなった新興の穀物質貸商長門屋権八家、代々組頭・年寄の役を勤め藩の扶持商人となった繰綿商の伊予屋元三郎家、代々端物商を営み唐端物改問屋・組頭などを勤めた山形屋彦五郎などの商人が居住(知新集)


細工町
さいくまち

[現在地名]萩市大字細工町

春若はるわか町の東に続く町人町。北は樽屋たるや町、東は塩屋しおや町。

町名の由来を「萩諸町之旧記草案」は「何れ之頃開けしといへる事不詳。数多之細工人住居せる故、かく名付るか」と記す。宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば町の長さ五三七間余、家数一八七、うち本軒五五、店借一二九、貸屋三でほかに蔵が六ヵ所あった。明治一八年(一八八五)の「山口県地誌稿」では町の幅東西一町五六間、南北一町一間四尺。


細工町
さいくちよう

[現在地名]小松市細工町

材木ざいもく町の東にある南北通りで、南は地子じし町、北は松任まつとう町に続く。長さ一町一二間・幅一間三尺で、「中間東ニ入リ□十五間ニシテ北ニ折レ小松新町ニ通ス、長一町一十四間四尺、幅一間」とある(皇国地誌)前田利常の小松在城中、城中御用を勤める細工師が住んだための町名で、同じ頃本蓮ほんれん寺・上宮じようぐう寺がともに当町内に移ってきたため、門前町としても発展した(小松市史)


細工町
さいくまち

[現在地名]明石市本町ほんまち一丁目

明石城の細工御門から山陽道に至るまでの町で、東は鍛冶屋かじや町と一部外堀に接しており、北は東魚ひがしうお町、南は東本ひがしほん町。城下町の中心街を形成していた町の一つで、元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町の一町(明石名勝古事談)。享保六年(一七二一)改によれば役門二〇間七歩五厘、家数七七(本家三六・借家四一)、建家表地口一一八間五尺、人数三二四。細工町筋は別名白銀町ともよばれていた(明石記)


細工町
さいくまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち一―四丁目

一丁目いつちようめの南に並行する東西の通りで、東端は馬場ばば町、西端は水筒すいどう丁から上水筒町に続く南北の通り。山下さんか一八町の一でうち町のうち。延宝(一六七三―八一)頃までは職人町とよばれた。細工町の名称は慶安(一六四八―五二)頃より当町に居住した善見氏某が造花などの細工物を城内の諸士に商ったことにちなむとされる。


細工町
さいくまち

[現在地名]久留米市中央町ちゆうおうまち

呉服ごふく町の南にあり、東は米屋こめや町、西はいま町に続き、南を池町いけまち川が流れる。町名は細工職人の居住によるが、著名な金工桂永寿は当町出身という。延宝城下図ではサイク町と記される。「啓忘録抜萃」に細工町とみえ、町別当布屋掛に属し、家数四四軒・小間数一四七間半。「校訂筑後志」では町間数一町五九間。


細工町
さいくまち

[現在地名]小矢部市中央町ちゆうおうまち

なか町の東端で北陸街道に交差する南北道に沿う両側町。この道が中越前なかえちぜん町・下越前町境を起点に北陸街道に並んで東進する道と交差する間のT字形の街路の町で、中町の南裏にあたる。本町に属する。南北道をさらに南進すると古国府勝興ふるこしようこう寺支坊などが並ぶ門前もんぜんがある(元禄一五年今石動町図)


細工町
さいくまち

[現在地名]高砂市高砂町細工町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、南堀みなみほり川から北へ二筋目の道沿いに北本きたほん町から西へ西堀川まで連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数四九・竈数六六・店借三三、人数二四〇、うち田地持二(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。弘化三年(一八四六)の家数四四・人数一七八、町年寄は赤穂屋太助で組頭が四人いた(「宗門人別帳」高砂市蔵)


細工町
さいくまち

[現在地名]八代市ほん町三―四丁目

地元では「さいこまち」とよぶ。城の南西に位置し、中島なかしま町の西に続き十字路に交差する町屋である。


細工町
さいくのちよう

[現在地名]津山市細工町

上紺屋かみこうや町北裏の通りに東西に連なり、北に面した片側町。東は下紺屋町、西は町の侍屋敷、北は同じく侍屋敷。正保城絵図に町屋が記され、万治町絵図に町名がみえる。「武家聞伝記」貞享元年(一六八四)条には「才工町」とある。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳によれば家数二四、本役一一軒、町筋東西八九間・通道町幅二間五尺。


細工町
さいくちよう

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

てら町筋の北側にある東西の町筋。浅野氏時代に成立した町で、東のとおり町、西のよこ町筋と交差する五六間の町筋。家数一三軒の小町で、うち借家一(宝永元年加里屋町絵図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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