松原八幡神社(読み)まつばらはちまんじんじや

日本歴史地名大系 「松原八幡神社」の解説

松原八幡神社
まつばらはちまんじんじや

[現在地名]姫路市白浜町

山陽電鉄本線白浜の宮しらはまのみや駅の南方に鎮座する。祭神は息長足比売命・品陀和気命・比大神。旧県社。境内には住吉神社・神明神社・琴平ことひら神社など一四社を祀る。白浜町地区(旧松原・中・宇佐崎の三ヵ村)および東山ひがしやま八家やか木場きば妻鹿めが各地区の氏宮として崇敬が厚い。松原別宮・松原八幡宮などともよばれ、中世は山城石清水いわしみず八幡宮松原庄の総鎮守。天平宝字七年(七六三)に豊前宇佐宮から分霊を勧請したのが創始という。このとき松原浦の沖合に光るものがあるので目賀めが庄の漁人久津理が網ですくいあげると、紫檀の霊木に「宇佐第二垂迹八幡大菩薩」の文字があったので目賀川の河口に祀った。このことが朝廷に聞え、勅使が下向して目賀の北山に仮殿を造り神体を移した。ある夜、国司の夢のなかでこの浦に鎮座したい所があるから、その場所を一夜のうちに蒼海から白浜に変えて数千本の松を生やすとの託宣があり、神体を現在地に移して神殿などを造営したという(以上「播州松原山八幡宮縁起」「播州松原山八幡宮略記」智恵袋)

文永三年(一二六六)五月一日の石清水八幡宮検校御教書(石清水文書)に「松原別宮」とみえ、このとき石清水八幡宮から一切経会料田三町の寄進を受けている(「石清水八幡宮寺公文所下文」同文書)。同時に松原別宮の境内敷地が東西六町・南北二町と定められ(同年同月二日「松原別宮預所右衛門尉俊弘下知状」同文書)、南北朝・室町・戦国時代においてもこの範囲が変化することはなかったという。文永九年一〇月日の石清水八幡宮公文所下文(同文書)によれば、行源が莫大な私財を投じて御殿・二階楼門・築地・経堂・殿上・東西棟門などを新たに造営し、松原別宮の姿を一新させた。

松原八幡神社
まつばらはちまんじんじや

[現在地名]三次市海渡町

町の南、美波羅みはら川西岸に鎮座。近世海渡うと石原いしはら三若みわか三ヵ村の氏神で、神功皇后・応神天皇・仲哀天皇を祀る。旧村社。「国郡志下調書出帳」に「鎮座年代相知不申、但縁起宝物など何も御座なく候え共、三若村旗返山城主江田尾張守隆貫公産神と相唱来申し候」とあるが、一説に文明一四年(一四八二)八月三谿みたにつじ八幡宮(現双三郡吉舎町)より勧請し、初め三若村に祀り、のち現在地に移したともいう(海渡町史)

境内に江田隆貫を祀った隆貫御霊たかつらごりよう社・竜王社があり、二宮八幡・伊勢宮も合祀する。さらに大正八年(一九一九)村内の大歳社・大仙社・稲荷社をはじめ諸荒神社など一六社を合祀した。村にあった真言宗福原山極楽ごくらく寺は八幡宮の別当寺で、前記書出帳は「元禄の頃迄右寺御座候趣申し伝え候、当時は木仏阿弥陀を安置し、辻堂ばかり御座候」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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