出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中国,清末の文人,翻訳家。福建省閩侯(びんこう)の人。字は琴南,号は冷紅生,畏廬など。桐城派の古文を学び,京師大学堂(北京大学の前身)教習に任じた。フランス帰りの王寿昌が口語訳した小デュマの《椿姫》を文語化し《巴黎茶花女遺事(パリちやかじよいじ)》として1899年(光緒25)刊行したのをきっかけに,ストーの《アンクル・トムの小屋》の訳《黒奴籲天録(こくどゆてんろく)》(1901)をはじめ,各国の小説170種余りを翻訳し,〈林訳小説〉として当時の社会と文壇に大きな影響を与えた。みずからは外国語を解せず,外国語のできる助手の口語訳をもとにしているため,翻訳する作品の選択は恣意的であるが,古文家が外国の小説を翻訳したということで,中国における小説の地位を高めたほか,海外の文学の紹介という啓蒙的な役割をも果たした。民国成立後,文学革命において口語運動を提唱した胡適などを非難したが,保守派文人として忘れ去られた。
執筆者:中野 美代子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、清(しん)末の古文家、翻訳家。原名は群玉、字(あざな)は琴南、号は畏廬(いろ)、冷紅生。福建省閩(びん)県(いまの福州)の人。古文を学んで、フランス語のできる友人王寿昌の訳述により『巴黎茶花女遺事(パリちゃかじょいじ)』(デュマ・フィス『椿姫(つばきひめ)』)を訳し、この成功によって170種もの翻訳書を出して各国文学の紹介に貢献した。のちに京師大学堂(北京(ペキン)大学の前身)で古文の教育にあたり、民国以後、胡適(こてき)らの白話(はくわ)運動に反対して北京大学校長の蔡元培(さいげんばい)に非難の書簡を送ったり、『妖夢(ようむ)』『荊生(けいせい)』などの小説をつくったりして風刺した。晩年は悠々自適の生活を送った。
[尾上兼英]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…清末には文壇・政界の実力者曾国藩が出て,いっそう折衷学の傾向を強め,経書の文章も文学とみなし,政治・経済の2類を加え《経史百家雑鈔》を編集した。李鴻章もその弟子であり,厳復,林紓も欧米の思想・文学の紹介を桐城派古文の作者として行っている。【佐藤 一郎】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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