デジタル大辞泉
「益田孝」の意味・読み・例文・類語
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ますだ‐たかし【益田孝】
- 実業家。新潟県佐渡の人。鈍翁と号す。大蔵省を経て、三井物産設立とともに、同社総轄に就任、三井財閥発展の基礎を築いた。また、茶人、美術品収集家として知られる。嘉永元~昭和一三年(一八四八‐一九三八)
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益田孝 (ますだたかし)
生没年:1848-1938(嘉永1-昭和13)
実業家。三井の大番頭。佐渡奉行下役益田孝義の長男として生まれる。幼名徳之助。1858年(安政5)父に従って江戸に出,63年(文久3)池田筑後守の渡欧に随行する。明治維新後,横浜で貿易商を営み,72年(明治5)井上馨の推挙で大蔵省官吏となるが,73年井上,渋沢栄一らとともに退官する。同年先収会社を創立し,76年三井物産会社に合流して社長となり,89年工部省より三池炭鉱を譲りうけ三井鉱山合資会社(1892年設立,1911年三井鉱山株式会社となる)の基礎を築くなど,三井財閥の発展に尽力した。中上川(なかみがわ)彦次郎の死後,三井合名会社理事長となり,1914年同社を引退し,顧問となる。中上川の産業主義に対し,商法講習所,耕牧社,東北振興会を設立して商業教育に努めるなどの商業主義をとった。
益田は鈍翁と号する近代日本有数の好き者でもあり,茶道の復興に力を尽くし,大師会などの茶会を主催した。また茶道具,仏教美術を中心に4000点を超える美術の名品を収集し,文化財の保護や海外流出防止にも努めた。
執筆者:松元 宏
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益田 孝
マスダ タカシ
明治・大正期の実業家,茶人,男爵 三井物産社長;三井合名会社理事長。
- 生年
- 嘉永1年10月17日(1848年)
- 没年
- 昭和13(1938)年12月28日
- 出生地
- 佐渡国相川(新潟県)
- 別名
- 通称=徳之進,進,号=益田 鈍翁(マスダ ドンオウ)
- 経歴
- 安政5年東上、英語を学び、文久3年池田筑後守に随行して、フランスに渡行。明治維新後、貿易商を経て、5年大蔵省に入り、四等出仕、大蔵大輔などを務め、6年退官。7年井上馨とともに先収会社を創立、頭取となる。9年三井物産会社に合流して社長に就任、日本最大の貿易会社とした。「中外物価新報」(のちの日本経済新聞)も創刊。次いで伊藤博文に三池炭坑を譲られ、三井鉱山の基礎を築き、34年三井合名会社理事長となり三井財閥発展に尽力。大正2年渋沢栄一らと中国興業を設立。また茶人として茶道復興にも尽力、茶道具など美術品収集家としても知られた。3年引退して顧問となり、晩年は小田原で悠々自適の生活を送った。7年男爵。
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益田孝
ますだたかし
(1848―1938)
実業家。三井物産の育ての親であり、三井財閥の形成者。佐渡相川(あいかわ)の地役人の家に生まれる。父の転勤で箱館(はこだて)、江戸で少年期を送り、英語を学ぶ。江戸幕府の通訳となり、1863年(文久3)使節団の随員として渡欧。維新後に外国商館で貿易を習う。井上馨(いのうえかおる)に認められて1872年(明治5)大蔵省に入り造幣権頭となるが、翌年井上とともに退官。井上の創立する先収(せんしゅう)会社に参画し、それが1876年三井家に吸収されて三井物産が設立されるや同社に転じた。経営の最高責任者としてその発展に寄与した。人材の育成に力を注ぐ一方、三池炭鉱の払下げを成功させ、三池鉱山の基礎を築いた。中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)没後、管理部専務理事として三井の経営路線を商業主義的方向に修正した。1909年(明治42)三井合名会社を設立、理事長として銀行、物産、鉱山を株式会社化し、三井の財閥体制を確立した。1914年(大正3)退任後、小田原に隠棲(いんせい)し、養鶏、養魚などの事業に尽力した。鈍翁と称し、有数の茶人、茶器などの美術品収集家として名を残した。
[前田和利]
『長井実著『自叙益田孝翁伝』(1939・内田老鶴園)』
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益田孝
没年:昭和13.12.28(1938)
生年:嘉永1.10.17(1848.11.12)
明治大正期の実業家。三井財閥の基礎を固めた。佐渡奉行下役の長男として佐渡に生まれる。安政1(1854)年父の転勤で箱館へ行き,さらに江戸へ出た。箱館で英語を学び,江戸で外国方通弁御用となり,文久3(1863)年には遣欧使節に随行して渡欧,帰国後は横浜で貿易業に従事した。井上馨 の知己を得て明治5(1872)年大蔵省官吏となったが,井上の下野と行動を共にして貿易商社先収会社を創立,副社長となった。こうした経歴を買われ,9年三井物産創立と同時に社長に就任,その基礎を築いた。中上川彦次郎の死後三井経営の中心に座り,三井財閥を育成した。40年三井三郎助と欧米各国を訪問,旧家の財産管理を調査し,42年財閥の本社,三井合名会社を組織した。三井を引退後は鈍翁と称し,茶器,骨董品の収集家として有名であった。三井が工業経営に出遅れたのは益田の責任といわれるが,当時最大の利益を生んだのは商業であり,現実主義者の合理的な選択の結果である。大正7(1918)年男爵。<参考文献>三井文庫編『三井事業史』3巻
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益田孝
ますだたかし
[生]嘉永1(1848).10.17. 佐渡
[没]1938.12.28. 小田原
実業家。日本の資本主義興隆期の立役者。文久3 (1863) 年江戸幕府の使節の一員として父に随行しフランスへ渡った。明治維新後は外国商館に勤めて貿易に従事したが,明治5 (72) 年大蔵大輔井上馨のすすめで大蔵省に入り,翌年井上に従い退官し2人で先収会社を設立。 1876年三井の大番頭三野村利左衛門の依頼で外国貿易会社「三井物産」を設立し社長となり,先収会社は同社に継承。 88年には三池炭鉱を買収してのちの三井鉱山の基礎を固めた。中上川彦次郎の死後は三井管理部専務理事 (1902) ,1909年三井合名が設立されるや理事長に就任,三井の中枢部で経営手腕を発揮して,14年引退するまで三井財閥の発展に尽力した。「事業は人なり」の信念から多くの人材を登用し,その一環として商法講習所 (現一橋大学の前身) を創設。
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益田孝 ますだ-たかし
1848-1938 明治-昭和時代前期の実業家。
嘉永(かえい)元年10月17日生まれ。文久3年幕府の遣欧使節に随行,維新後横浜で貿易商をいとなむ。明治9年三井物産社長に就任。22年三池炭鉱の払い下げをうけ三井鉱山を設立。のち三井家同族会管理部の専務理事,三井合名の顧問となり,三井財閥の発展につくした。茶人,美術品収集家としても知られる。昭和13年12月28日死去。91歳。佐渡(新潟県)出身。号は鈍翁。
【格言など】夫(それ)茶湯は人の心を豊かにし,友の交りを厚くし,なべて世の融和をはかるを本意とす(信条)
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世界大百科事典(旧版)内の益田孝の言及
【コレクション】より
…明治時代後期に至って日本の資本主義が成長すると,実業家の中からコレクターが現れた。こうした中で特筆すべきは益田孝,原富太郎,根津嘉一郎,岩崎弥之助,小弥太親子らである。三井財閥をとりしきった益田孝(鈍翁,1848‐1938)は茶人としても知られ,仏教美術,古書画,茶道具の膨大で質の高い収集をなした。…
※「益田孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」