中国では皇帝諸侯のもとで祭祀,宴饗の楽をみずから指揮し楽人の教習に当たった者をいう。後世では音楽の師匠や演奏家一般を指すこともある。《周礼》春官には大司楽の下で下大夫の位にいるが,広義には楽師以下の大師,小師,磬師(けいし),笙師(しようし)などの師と付く楽人も包括して楽師と総称していたようである。その起源は《呂氏春秋》古楽に,黄帝時代の伝説上の人物で音律を定めた伶倫(れいりん)以下,歴代皇帝の音楽責任者の名が連なり,《史記》殷本紀にも楽師が周に逃げたと述べ,《史記》楽書に殷(いん)の楽師師延の名が見えるから,周朝の成立(前11世紀)以後に判定された雅楽をまたずともよいかもしれない。ただ楽師の名が師某として多く現れるのは雅俗の混乱を嫌った周以後で,絶対音高を定める鐘を聞きわける聴覚をそなえ(《呂氏春秋》長見の師曠(しこう)),音楽を写譜する能力をもった(《韓非子》十過の師涓(しけん))者として描かれている。だが楽師はその才能にもかかわらず,女楽(歌伎)と同様に贈与物とされた(《左氏伝》襄公)のは,自分自身を賤工と卑下する意識(《楽記》師乙)と表裏をなして芸術家の自負をもちえず,すでに司馬遷によって楽師は技術屋と蔑視される(《史記》楽書)社会通念をもたらした。それは漢朝(前3世紀)が太常寺を設置して音楽を管理した際,829人の楽人中に多数の官奴を含んでいたことや,北魏(4世紀)より楽工制度が開かれ,盗賊や殺人のかどで死罪となった者の妻子,戦乱による捕虜,およびその家族を奴隷として楽戸としたのは,楽人に対する身分的偏見を定着させた。隋が南北統一をして楽戸を長安に集めた時(6世紀末)はおびただしい数にのぼり,唐に入ってからも太常寺楽工は1万余,玄宗期(8世紀)には3万といわれる者が,順番に奏楽に当たった。唐朝でこれら楽工を教えた楽師は,楽正と博士であった。博士は国子監のとは違いふつう官位はないが,10年から15年の間に試験をうけ,成績によって官も得られた。楽工には才能なく鼓笛隊に追われる者もいたが,助教博士から博士へと楽師に昇級する道があった。他方,南北朝(5世紀)から胡楽が盛んになり,宮廷で西域人が珍重されると,中央アジアの曹氏のごとく王に封ぜられる者など登官者が出て,隋・唐にもこの異変は続いた。ただし宋朝(10世紀)には良民が宮廷に入って登官もふつうのこととなるが,音楽文化の主流は都市の娯楽街に移行し,宮廷楽師の役割は民間の楽師に代わった。すでに唐代,妓館に現れた彼らは,明朝では《金瓶梅詞話》に見えるごとく(16世紀),恋唄を歌い,箏,琵琶,三弦をこなして妓女に稽古をつけた。また文人に琴を教えた清客と呼ばれた琴師など,俗音楽は流派ごとに師弟関係をもって流伝した。天才の出現が新流派を生じて師となり,新しい伝統をつくりあげてきたのである。
なお日本では,古代からの雅楽寮で楽生を指導した職員,現在では,宮内庁で奏楽に従事する職員を楽師という。
執筆者:吉川 良和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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