榎町(読み)えのきまち

日本歴史地名大系 「榎町」の解説

榎町
えのきまち

[現在地名]前橋市千代田町ちよだまち四―五丁目・三河町みかわちよう一丁目

よし町から続く東西の通筋と、ほん町へ至る南北通の東側に町並が続く。南は本町と紺屋こんや町、北はかや町、西は横山よこやま町へ続く。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に「紺屋町ならび道東西に通ず。東なるは南に盤折して紺屋町の横街に列り、西なるは下之町に列る」と記される。明和八年(一七七一)一月一二日の大火により総家数四一軒のうち四〇軒を焼失、竈数は四二で、うち御家人一・寺院二であった(松平藩日記)。安永九年(一七八〇)一一月一六日の火災では総家数三六軒のうち一軒を焼失した(同日記)。寛政二年(一七九〇)には家数三一・竈数三三(うち家主三一・借家二)、男七〇・女四六、寺社五、持馬五(「家数人別書上帳」前橋市立図書館蔵)


榎町
えのきちよう

津知橋つちばし筋から上板橋かみいたばし筋までの間、竹田たけだ街道より一筋東の南北通りに面した南北二丁にわたる細長い町。町名は町内にあった榎の大木にちなむと思われる。「京都府地誌」は「該町ハ、豊臣家調馬場。俗に馬責場ト称ス。享保年中市街ヲ開ク」と記す。「豊公伏見城ノ図」によれば、現榎町辺りに「馬責場」がある。

寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図には、神泉苑しんせんえん町東側の榎町の位置が空白地で、「馬場」と記されている。馬場の東は寺院街で、南から北へ「浄土、悟心寺」「浄土、平等院」「浄土、宝国寺」「浄土、来光寺」と並ぶ。悟心ごしん寺は悟真寺、来光らいこう寺は来迎寺である。この時期榎町はまだ開町されておらず、享保一三年(一七二八)刊「伏見大概記」にも榎町の名は出ない。


榎町
えのきまち

[現在地名]松山市三番さんばん町・千舟町ちふねまちの一部

松山城下町の南部に位置し、三番町・四番よばん(千船町)などと直角に交差し、これらの通りを縦に結ぶ南北の町筋。東は三番町・四番町、西は末広すえひろ町、南はみなと町、北は出淵いでぶち町に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「惣町数七拾壱町」のなかにも、各種の城下町図にも町名が記されていないので、おそらく江戸後期になって榎町と公称されるようになったのであろう。


榎町
えのまち

[現在地名]中区榎町・西十日市にしとおかいち町・さかい町二丁目

広瀬ひろせ村のうち山陽道の北側の横筋および小屋こや(天満川)沿いの縦筋にできた町で、「知新集」に「むかしハこの所水道ばたに榎木あまたありしゆゑ」町名とされたとある。明治一〇年(一八七七)の広島市街地図には広瀬村のうちに新市しんいち天満川河岸に青物市場胡子えびす社などが載せられ、とくに食料品を中心に問屋約六〇軒があったという(新修広島市史)


榎町
えのきちよう

上京区黒門通上長者町上ル

南北に通る黒門くろもん通の両側町

平安京条坊では左京北辺二坊の南西にあたり、官衙町の「織部町」の地(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「ゑの木丁」とあり、以後天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成も「榎丁」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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