権現堂村(読み)ごんげんどうむら

日本歴史地名大系 「権現堂村」の解説

権現堂村
ごんげんどうむら

[現在地名]幸手市権現堂・きた三丁目

幸手宿の北に位置し、権現堂川右岸の沖積地に立地する。東は同川を隔てて元栗橋もとくりはし(現茨城県五霞村)。村名は当地に熊野・若宮・白山の権現を合祀した旧社があることに由来するという。天正四年(一五七六)同川に沿って堤が築かれた(風土記稿)。「風土記稿」に小名として大膳だいぜん新田が載せられており、慶長(一五九六―一六一五)頃の開発という。慶長六年奥州仙台伊達家の久喜鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。慶長二〇年検地が実施されている(「下総国猿嶋郡幸手内権現堂村御検地帳」巻島家文書)。その後検地は寛永四年(一六二七)・同一四年にも行われているが(同文書)、同四年の検地帳表紙に「下総国幸島郡幸手ノ内権現堂村検地帳」、同一四年のものには「武州幸手ノ内権現堂村御検地方書帳」とあり、この間に国境の変更が行われている(同文書)。また寛文四年(一六六四)には見取場の検地が(「見取場検地帳」同文書)、元禄八年(一六九五)には武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施されている(同一〇年「検地帳」同文書)


権現堂村
ごんげんどうむら

[現在地名]浪江町権現堂

泉田いずみだ川の南部平坦地にあり、東は南幾世橋みなみきよはし村。村内を浜街道が通る。かつて高野こうやと称したという。嘉吉年間(一四四一―四四)請戸うけど村の大平山おおひらやま館にいた標葉清隆が高野町本城もとじように移り、文安(一四四四―四九)頃さらに本城より北四町ほどの泉田川北岸(現西台)に砦を築き、砦内に出羽権現を祀ったための地名と伝える(「給人根元記」福島県史)。標葉氏はその後相馬氏により滅亡、権現堂城には岡田氏が入り、岡田氏もその後権現堂氏と称した。正保郷帳では田方三四三石余・畑方六六石余。


権現堂村
ごんげんどうむら

[現在地名]上山市権現堂

蔵王川右岸にあり、南西対岸は高野こうや村。蔵王の本地仏である釈迦如来の堂を建て、月山蔵王両所権現堂と称したので地名のもとになる。枝郷のあしくち(芦ノ口)には奈良時代の古窯跡があり、須恵器が出土する。地内に正長二年(一四二九)の板碑、蔵王権現の足跡といわれる仏足跡や金壺石がある。正保郷帳では田方一八六石余・畑方一〇四石余。


権現堂村
ごんげんどうむら

[現在地名]市原市権現堂

宮原みやばら村の北東養老ようろう川左岸にある。文禄三年(一五九四)七月の海保之郡新生之郷検地帳(写、岡田家文書)は表紙に権現堂村分写とあるので、当村分と考えられ、田畑二一町四反余とあり、一筆の記載順は耕地名・品等・縦横の間数・反別・分付主および作人となっている。


権現堂村
ごんげんどうむら

[現在地名]毛呂山町権現堂

阿諏訪あすわ村の南、秩父山地東麓、大谷木おおやぎ川上流にある山間村。山の中腹・谷間に人家が散在する。田園簿に村名がみえ、畑二七石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の検地帳(毛呂山町史)では田九反余・畑屋敷八町九反余。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高三三石余、幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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