日本歴史地名大系 「横瀬村」の解説
横瀬村
よこぜむら
暦応三年(一三四〇)正月二四日の安保光泰譲状(安保文書)によれば、安保光泰が惣領泰規に譲与した所領のうちに「秩父郡内横瀬郷」などがあった。なお同年八月二二日の安保光泰譲状(同文書)にも同様の記載がある。天正四年(一五七六)四月一一日、北条氏邦は「横瀬之内」の兵部大夫に対して陣庭への馬一匹の供出を命じている(「北条氏邦印判状写」風土記稿)。
田園簿では高一千一五四石余・此永二三〇貫八一〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。なお、天正二〇年の年貢請取状(加藤家文書)には横瀬之郷、明暦元年(一六五五)の検地帳(若林家文書)には横瀬郷とあって、近世初期までは横瀬郷の呼称も用いられている。
横瀬村
よこぜむら
- 岩手県:江刺市
- 横瀬村
寛永一九年(一六四二)の横瀬村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方八二町二反余・代一〇二貫四文、畑方八一町六反余・代二三貫八一二文、茶畑六反一畝余・代一貫五七三文、名請人数七〇。
横瀬村
よこぜむら
- 高知県:中村市
- 横瀬村
天正一七年(一五八九)の幡多庄横瀬村地検帳によると検地面積七二町一反余、屋敷数一四七、これは江戸時代の
横瀬村
よこせむら
横瀬村
よこぜむら
横瀬村
よこせむら
横瀬村
よこせむら
横瀬村
よこせむら
横瀬村
よこせむら
横瀬村
よこせむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報