正定寺(読み)しようじようじ

日本歴史地名大系 「正定寺」の解説

正定寺
しようじようじ

[現在地名]川副町大字南里字西南里

南里なんりにあり、天平年間(七二九―七四九)行基の開創という。医王山不退寺と号し、のち願海が浄土宗とし、現寺号となる。本尊阿弥陀如来

佐賀藩寺社差出の浄土宗由緒に次のように記されている。

<資料は省略されています>

この一帯に行基の作と伝えられる川副七仏薬師の話がある。正定寺や法源ほうげん(現川副町大字福富)の記録によれば、天平一〇年九州の諸国に疫病が流行し、旱魃、洪水もかさなり死者が絶えなかった。このとき行基は流れついた樟樹から七体の薬師像を彫刻し、七ヵ所に安置して祈念したところ、災厄たちどころに止んだ。のち一宇が建立され荘田を受けて勅願所となったという。


正定寺
しようじようじ

[現在地名]室生村向淵

向淵むこうじの北部にある。龍護山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、貞和三年(一三六四)本願寺覚如の長男存覚が伊賀に赴くとき向淵で念仏修行に努める馬場ばば長者に出会い、ここに留錫したため浄土真宗帰依して一宇の寺院を創建したことに始まるという。「存覚袖日記」によると、応安三年(一三七〇)三月二八日、「大和国山辺郡向淵住顕実相伝」の方便法身尊像および法然・親鸞連坐像に存覚が裏書したとあり、これが現存する法然・親鸞連坐像とみられ、大和における真宗ではかなり早い時期のものとされる。


正定寺
しようじようじ

[現在地名]総和町下大野

鹿島神社西方、下大野しもおおの集落北端に所在。平地林のなかに広大な寺域をもつ。重層楼門が建ち、左右に金剛力士像がある。証誠山等持とうじ院と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来は安阿弥作で、新田義季の守本尊であったと伝える。鐘銘に「下総国葛飾郡大野郷正定寺者、真宗関東三流之其一、持阿上人所開基而大一領学徒高仰玄風(中略)時元禄元年歳戊辰初冬中三日、下総国葛飾郡上幸島荘下大野村証誠山正定寺四拾二住中興誠蓮社証誉拠水宗哲」とあり、持阿が開いた。元和二年(一六一六)伊奈忠次より寺領三石の墨付証文を受ける。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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