平泉町中央部に位置する一山寺院。医王山金剛王院と号し、本尊は平安後期作の薬師如来(県指定文化財)。天台宗別格本山。現在の毛越寺は
開創について(一)慈覚大師円仁開基・藤原清衡建立(再興)説、(二)藤原基衡建立説、(三)清衡創建・基衡再建説がある。一般的に受入れられてきたのは(二)で、「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月一七日条所収の寺塔已下注文に「基衡建立之、先金堂号円隆寺(中略)次嘉勝寺、未終功之以前、基衡入滅、仍秀衡造之畢」とある。これは毛越寺の由来に関する最古の史料で、一山の僧による源頼朝への報告を基にした記事とみられることから、基衡円隆寺建立、秀衡嘉祥寺完成説が信頼性の高いものとされてきた。その時期については同記事中に「
しかし毛越寺が公的に採用してきたのは(一)である。「吾妻鏡」嘉禄二年(一二二六)一一月八日条の毛越寺焼亡記事中に「是藤原清衡建立精舎也」とあるが、これは基衡の誤記との見方が強い。承応三年(一六五四)の毛越寺諸役免許願下書(西光寺文書)に「嘉祥年中慈覚大師御開基、堀川・鳥羽二代之勅願、従清衡秀衡迄三代之建立」とあり、江戸初期以降の毛越寺文書や地誌はすべて(一)を採っている。「平泉村安永風土記」も開山を嘉祥三年(八五〇)とし、慈覚大師が「東遊之日ニ偶爾として此地に到り給へハ、雲霧俄然として山に満ち行路空濛として難尋、暫有て霽るるに及ひ前程を見るに白鹿の毛地に敷て綿々と連る事小径の如し、大師怪給ひ行事数歩にして其止る所を見給ふに陰森たる下に白鹿蹲踞して睡れり、大師進み行給ふに忽焉として見へす、又傍を見給ふに老翁出現して不測の吉瑞を告て飛去りぬ、大師歓喜涕泣して其地に金堂を建立し給ひ、年号を以嘉祥寺と号し、又諸社諸坊舎を造立せり、然に薬師如来は(中略)大師手自医王善逝を彫刻し金堂へ安置し給ひ、山を医王と号し、白鹿の毛を尋て山を越給ふか故に毛を越す寺と号す、胎金両部界弘通繁栄守護の為に金剛王院と号せり、是一山の惣名なり、(中略)往古繁昌せりといへ共星霜漸移て諸社堂宇破壊に及べり、爰に長治年中堀川院皇子鳥羽帝御悩にましませし時、上皇是を悲しみ転士を召して鑑文を捧しむ、転士詳に奏問し即御祈願有て御悩平癒し後再興の勅語ありて、鳥羽院の御宇左少弁富任朝臣勅使として御下向あり、前の官領主に命して諸社堂宇悉再興有、富任奉行し給ひ官領主清衡基衡勅命を蒙りて造立せり、(中略)遂に供養有て金堂円隆寺といへる、勅額を賜ひ円家の教法永く隆なるか為に号し給へり、爾来一山の号とす、仍而寺号毛越円隆の両名を呼来れり」とあり、嘉祥寺号は開基年号により、毛越寺号は白鹿の奇瑞によること、その後一時廃れ清衡・基衡のとき堀河・鳥羽両院の勅願により長治年間(一一〇四―〇六)に再興し円隆寺と号したとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺。医王山金剛王院と号し,〈もうつうじ〉とも呼ばれる。850年(嘉祥3)円仁の開基と伝え,平安末期に藤原基衡が再興,秀衡によって完成されたという。堂塔40余宇,禅房500余宇と称され,その規模は中尊寺をしのぎ,その荘厳のみごとさは〈海内無双〉と称された。金堂は円隆寺と号し,堂額は関白藤原忠通の筆で,仏師雲慶(運慶か。ただし年代があわない)に依頼して造られた本尊の丈六薬師像を見た鳥羽法皇は,その東下をさしとめ,これを都にとどめようとしたという。1226年(嘉禄2)の火災や1573年(天正1)の兵火にあって原形をまったく失った。現在,金堂跡のほかに,ほぼ同一プランの嘉勝寺跡があり,両寺中間奥には講堂跡が知られている。以上三つの遺構はみごとな礎石の並びを残す。金堂跡の前面には大泉池(おおいずみがいけ)が広がり,池の南には南大門跡,東側には基衡夫人安倍宗任娘が建立した観自在王院跡がある。毎年旧暦の1月20日に常行堂で延年の舞が舞われ,境内には芭蕉の〈夏草やつはものどもが夢のあと〉の句碑が建てられている。
執筆者:高橋 富雄
庭園は南大門跡と金堂跡との間に広がる大泉池を中心とする。大泉池は東西約180m,南北は東部で約90m,西部で約60mあり,南側から東側へ土堰堤を築き,底を平らに掘りならして水をたたえる。池底から岸,さらに金堂および回廊に至るまで,近くの北上川の玉石が敷きつめられ,州浜となって大らかな景観を見せている。池の中央やや西の北寄りに勾玉(まがたま)形の中島があり,南大門と金堂の中軸線上に二つの橋が架かっていた。今も橋脚が水中に残存し,南橋は桁行11間(ま)(長さ約28m,幅約3.6m),北橋は桁行7間(長さ約18m,幅同じ)であることがわかる。中央の1間だけが広く,舟行の便をはかっていた。橋両端の景石である橋引石や,その間に配される狭間石もあり,庭・橋がセットになって残る最古の例である。池の南西隅には大小150個近い石をたたんで崖状の岩山をつくり,南東隅の出島や,東岸の州浜形の岬と対照的に,変化のある構成を示し,出島の先の離れ小島には,高さ約2.5mもの巨石を立てて全庭のかなめとしている。南西岸の岩山につづく第2の築山上には,22個の臥石があたかも自然に露出した岩盤かのように組まれている。《作庭記》にいう〈水景と関わり合いのない〉枯山水石組みとして,平安時代唯一の実例である。
北岸と西岸は長年月のうちに土砂で埋まったが,1980年からの発掘調査の結果,東門跡よりまっすぐ西にのびて北に直角に折れ,当初の常行堂の手前でさらに西に向かって金堂の東回廊に至る池畔の通路が検出されたり,これまで舟入りとされていた部分が,岸に近い小島であること等がわかった。最大の成果は従来東回廊雨落溝の先端から池に注ぐと考えられていた遣水(やりみず)石組み跡とは別に,その東20mあまりのところより本格的でみごとな遣水跡が発掘されたことである。現在はこれらの遺構に基づく復元的整備が行われている。随所にみられる《作庭記》流の意匠・技法は,本庭の築造に京都より優れた技術者が招かれたことを物語っている。
執筆者:村岡 正
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岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉(ひらいずみ)町平泉にある天台宗別格本山。寺名は「もうつじ」とも読まれていた。医王山金剛王(こんごうおう)院と号する。17院からなる一山寺院で、本堂の本尊は薬師如来(にょらい)。850年(嘉祥3)、中尊寺を開いた慈覚大師円仁(えんにん)が、都の鬼門にあたるこの地に鎮護国家祈願所として薬師如来を祀(まつ)る中堂を建立、年号をとって嘉祥(かしょう)寺としたのを開基とする。のち堀河(ほりかわ)、鳥羽(とば)両帝の勅願により藤原清衡(ふじわらのきよひら)・基衡(もとひら)が再興、鎌倉初期には堂塔40余、僧坊500余を数え、中尊寺とともに平泉文化の中心であった。1189年(文治5)藤原氏滅亡後は源頼朝(みなもとのよりとも)が武門祈願所としたというが、たびたびの火災で当時の建物は一宇も残されていない。現在境内には1989年(平成1)再建された本堂のほか常行堂、宝物館がある。基衡の再興時の礎石や遺構が残されており、境内地は特別史跡に指定されている。庭園(特別名勝)は大泉が池を中心に造園当時の配石を残しており、平安時代の典型的な浄土庭園の遺跡である。また、芭蕉(ばしょう)の「夏草やつはものどもが夢のあと」などの句碑2基がある。常行堂で古式にのっとって行われる常行三昧供(ざんまいく)、そのあと奉納される延年の舞(えんねんのまい)はいずれも国重要無形民俗文化財に指定されている。各子院には寺宝も多い。
[中山清田]
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「もうつじ」とも。岩手県平泉町にある天台宗の寺。医王山と号す。寺伝によると,850年(嘉祥3)円仁の開基,1108年(天仁元)藤原基衡(もとひら)が再建し,同秀衡が規模を拡大。堂塔40宇余,禅房500余で,それら諸堂は寝殿造の様式で造られ,浄土式庭園をもち,中尊寺をしのぐ壮観であったという。金堂の円隆寺の額は関白藤原忠通の作で,雲慶作と伝えられる本尊の丈六薬師は,鳥羽法皇がその東下を惜しんだという。1226年(嘉禄2)と1573年(天正元)の2度の兵火で原形をまったく失い,現在は庭園(国特別史跡)にわずかの面影を残す。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…求心堂平面をもつ堂は平安前期に円仁によって建立された比叡山の常行(じようぎよう)三昧堂のように中心に仏壇をおき,周囲1間通りに行道できる庇(ひさし)をめぐらし,さらに孫庇をめぐらした方五間堂の省略形から発展したとも考えられる。その左右に翼廊を付し,前面に苑池を設けた形は1053年(天喜1)に藤原頼通が造営した平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)で,白河天皇の法勝寺(1077)や藤原基衡の平泉毛越(もうつ)寺(1150ころ)なども浄土になぞらえて,苑池に面する伽藍とされた。小型の方三間堂(阿弥陀堂)は全国各地に設けられ,京都法界寺阿弥陀堂は方5間に裳階(もこし)を付した発展形式をもつ。…
…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
…鎌倉幕府の執権北条高時が田楽に熱中したのは有名な話だが,南北朝時代,猿楽能の人気に押されて衰退し,現在は地方寺社の祭礼などに演じられるのみになった。その余風は,いまも和歌山県の那智大社や岩手県平泉の毛越寺(もうつじ)などにうかがうことができる。(3)風流芸 風流はもと雅(みや)びやかの意であったが,平安時代には趣向を凝らした庭園や調度,衣装,山車(だし)などの造形美を賞する語となり,そうした造形美を誇示した祭りや芸能を風流の名で呼ぶようになった。…
※「毛越寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
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