デジタル大辞泉
「池田成彬」の意味・読み・例文・類語
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いけだ‐しげあき【池田成彬】
- 実業家。三井財閥の発展改革につとめ、三井の大番頭といわれた。のち日銀総裁、蔵相、枢密顧問官を歴任。慶応三~昭和二五年(一八六七‐一九五〇)
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池田成彬(いけだせいひん)
いけだせいひん
(1867―1950)
明治・大正・昭和期の実業家。三井財閥のリーダー。名は「しげあき」とも読む。慶応(けいおう)3年7月16日米沢(よねざわ)(山形県)藩士の長男に生まれ、慶応義塾やハーバード大学に学ぶ。帰国後、三井銀行に入り同行の近代化に力を注ぐ。とくに1919年(大正8)には筆頭の常務取締役になり、三井銀行株式の公開を推し進めた。1931年(昭和6)三井銀行のドル買い事件の矢面にたつ。1932年三井合名理事長の団琢磨(だんたくま)が暗殺されると、団の後を継いで三井財閥の最高指導者となり、三井の改革を断行した。三井系企業の重役から三井同族を退任させ、役員についても定年制を採用した。また三井報恩会を設立させ、社会事業にも尽くした。1936年定年制に基づき三井合名から引退。その後、日本銀行総裁(1937)や第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の蔵相・商工相(1938)、さらに枢密顧問官(1941)を歴任するなど政財界で活躍した。1945年12月A級戦犯容疑者に指定されたが、翌1946年5月解除される。昭和25年10月9日死去。夫人は中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)の長女艶である。
[杉山和雄]
『『池田成彬伝』(1962・池田成彬伝記刊行会)』
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池田 成彬
イケダ シゲアキ
- 肩書
- 蔵相,三井財閥の指導者,日銀総裁
- 生年月日
- 慶応3年7月16日(1867年)
- 出生地
- 出羽国米沢(山形県米沢市)
- 学歴
- 慶応義塾別料〔明治21年〕卒 ハーバード大学〔明治28年〕卒
- 経歴
- 慶応義塾を経て、明治28年ハーバード大学を卒業。帰国後、福沢諭吉の「時事新報」に入社するが、福沢と合わず退社。同年三井銀行に入り、30年足利支店長、本店営業部長を経て、42年常務、大正8年以降筆頭常務として君臨、同行を金融界のトップに押し上げた。ドイツの金融コンツェルンを研究し、三井財閥の基礎を固めた。昭和8年団琢磨暗殺の後をうけて三井合名常務理事となり、持株公開、三井一族の引退など三井改革を推進。11年定年制を設け、自ら退いた。12年日銀総裁に就任。13年には第1次近衛内閣の蔵相兼商工相をつとめ、16年枢密院顧問官となる。敗戦後、A級戦犯となるが、のち解除。妻・艶子は中上川彦次郎の長女。著書に「財界回顧」がある。
- 没年月日
- 昭和25年10月9日
- 家族
- 父=池田 成章(米沢藩家老) 息子=池田 潔(英文学者)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
池田成彬 (いけだしげあき)
生没年:1867-1950(慶応3-昭和25)
三井財閥出身の銀行家,政治家。米沢藩池田成章の長男として米沢に生まれる。慶応義塾に学んだ後ハーバード大学へ留学,1895年帰国して時事新報社に勤め,同年三井銀行に入社。三井財閥の直系事業であると同時に日本のトップ銀行であった三井銀行の第一線で活躍し,1909年常務取締役へ昇進,19年筆頭常務になると率先して増資・株式公開を実施し,台湾銀行整理や電力外債募集などを通じて経営手腕を発揮,池田時代を築いた。昭和恐慌下ドル買事件による世論の財閥非難が高まる中で,暗殺された団琢磨を継いで32年財閥本社三井合名の理事に就任,三井の総帥として〈財閥の転向〉といわれた諸改革を断行した。36年みずから敷いた停年制で三井を辞め,37年日銀総裁,さらに38年から第1次近衛文麿内閣の蔵相兼商相を歴任,その後内閣参議をへて敗戦まで枢密顧問官の任にあった。戦後A級戦犯容疑者の指定(1946年5月解除)を受けて政財界から引退した。
執筆者:松元 宏
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池田 成彬
イケダ シゲアキ
明治〜昭和期の実業家,政治家 三井財閥の指導者;日銀総裁;蔵相。
- 生年
- 慶応3年7月16日(1867年)
- 没年
- 昭和25(1950)年10月9日
- 出生地
- 出羽国米沢(山形県米沢市)
- 学歴〔年〕
- 慶応義塾別料〔明治21年〕卒,ハーバード大学〔明治28年〕卒
- 経歴
- 慶応義塾を経て、明治28年ハーバード大学を卒業。帰国後、福沢諭吉の「時事新報」に入社するが、福沢と合わず退社。同年三井銀行に入り、30年足利支店長、本店営業部長を経て、42年常務、大正8年以降筆頭常務として君臨、同行を金融界のトップに押し上げた。ドイツの金融コンツェルンを研究し、三井財閥の基礎を固めた。昭和8年團琢磨暗殺の後をうけて三井合名常務理事となり、持株公開、三井一族の引退など三井改革を推進。11年定年制を設け、自ら退いた。12年日銀総裁に就任。13年には第1次近衛内閣の蔵相兼商工相をつとめ、16年枢密院顧問官となる。敗戦後、A級戦犯となるが、のち解除。妻・艶子は中上川彦次郎の長女。著書に「財界回顧」がある。
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池田成彬【いけだしげあき】
実業家,のち政界に入る。米沢の人。慶応義塾とハーバード大学に学ぶ。1895年中上川彦次郎時代の三井銀行に入り,その後継者として筆頭常務に進む。また中上川の女婿でもあった。団琢磨横死のあとを受けて三井合名会社常務理事となり,昭和動乱期の三井家の保全を図る。1936年みずからが導入した停年制にしたがって三井を去り,翌年日銀総裁,のち第1次近衛文麿内閣蔵相兼商工相,枢密顧問官。
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池田成彬
いけだしげあき
[生]慶応3(1867).7.16. 米沢
[没]1950.10.9. 東京
大正から昭和前期の銀行家,三井財閥の指導者。米沢藩士の長男として生まれ,1888年慶應義塾を卒業し,ハーバード大学に学んだ。帰国後『時事新報』を経て 1895年三井銀行に入社。 1909年常務取締役となり,以来合理主義的な感覚と実行力で,三井銀行を日本の代表的銀行に発展させた。 1932年三井合名の理事,1933年同常務理事となり,三井財閥の指導者の地位につくとともに,持ち株の公開,重役の定年制などを実行し,三井の改革を遂行した。 1936年三井を退き,1937年日本銀行総裁,1938年第1次近衛内閣の大蔵大臣兼商工大臣などを歴任した。
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池田成彬 いけだ-しげあき
1867-1950 明治-昭和時代の銀行家,政治家。
慶応3年7月16日生まれ。池田成章(なりあき)の長男。妻は中上川(なかみがわ)彦次郎の長女艶。明治28年三井銀行にはいる。大正8年筆頭常務となり,電力会社に外貨債を発行させるなど経営手腕を発揮。昭和8年三井合名常務理事に就任,三井財閥における所有と経営の分離(財閥転向)を推進した。12年日銀総裁,13年第1次近衛内閣の蔵相兼商工相。昭和25年10月9日死去。83歳。出羽(でわ)米沢(山形県)出身。慶応義塾卒。
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池田成彬
いけだしげあき
1867.7.16~1950.10.9
明治~昭和期の実業家・政治家。米沢藩士の子。名は「せいひん」とも。慶応義塾卒。ハーバード大学に留学。時事新報社に一時勤めたのち,1895年(明治28)三井銀行に入社。1909年常務取締役となり,同行経営の中心となる。32年(昭和7)財閥批判のなかで三井合名理事,翌年常務理事となって財閥転向を主導したが,36年定年制を設けて退任。日本銀行総裁,第1次近衛改造内閣の蔵相兼商工相を歴任し,41年枢密顧問官となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
池田成彬
いけだしげあき
1867〜1950
大正・昭和期の実業家・政治家。三井財閥の指導者
米沢藩士の家に生まれる。慶大卒。アメリカ留学後,三井銀行に入社,同銀行の発展に努力し業界第1位の地位を築いた。1932年三井合名理事,'37年日銀総裁,'38年第1次近衛文麿内閣の大蔵兼商工大臣となり,財界・政界に重きをなした。第二次世界大戦後,公職追放令により引退。
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池田 成彬 (いけだ しげあき)
生年月日:1867年7月16日
明治時代-昭和時代の銀行家;政治家。日銀総裁;大蔵相兼商工相
1950年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の池田成彬の言及
【国本社】より
…前年の[虎の門事件]に衝撃をうけた平沼が,〈国体ノ精華ヲ顕要スル〉ことを目的として結成した,反政党政治・反国際協調の傾向を強くもつ団体である。メンバーは平沼系の判事,検事が中心であるが,荒木貞夫,宇垣一成,後藤文夫,池田成彬などの軍人や内務省などの高級官僚,財界人をも組織した点に特色がある。地方支部でも司法官や地方政財界の名士を多数組織しており,市役所,裁判所内に事務所を設けている支部も多かった(支部39,会員1万7816名,1935年時の官憲資料)。…
※「池田成彬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」