改訂新版 世界大百科事典 「池田荘」の意味・わかりやすい解説
池田荘 (いけだのしょう)
(1)大和国添上郡(現,奈良市池田町)にあった荘園。まず興福寺雑役免諸荘園中の一つとして現れる。1070年(延久2)の坪付帳によると総面積は55町1反300歩で,荘田は京南2条3,4里および3条3,4里にわたっていた。大部分は公田畠に設定されていたが,神社仏寺田も少し含まれている。この雑役免田は反別1斗の負所米を興福寺に納める寺門領として鎌倉時代にも存続したと考えられるが,同時に同所には,鎌倉時代,2条4里の全域を占める興福寺一乗院領池田荘が成立していた。1186年(文治2)の丸帳(名寄帳)によると,この池田荘は36町180歩の面積を有し,荒田,池,倉敷地,給田などを除く定田畠17町7反余は11のほぼ均等な名田に分かれ,反別3斗の分米と町別2疋の絹および町別3両の紅花を年貢として一乗院に出すことになっていた。なお室町時代に南の井殿荘との間で境相論のあったことが《大乗院寺社雑事記》にみえている。
執筆者:泉谷 康夫(2)平安末期に成立した遠江国豊田郡の荘園。1171年(承安1)の立券文によると,12世紀前期には松尾神社領として成立。当時は天竜川を東境としたが,河道の西遷によって現在の天竜川の左右両岸にわたる地域に,惣田数385町4反余,畠164町3反余(うち現作田畠は約3分の2),野地58町余,河30余町,浜2町余,河原40余町,在家50宇があった。在家は微高地に屋敷地をもつ在家役負担者を中心に,同族的な数戸で集落の構成単位をなしていたと思われる。隣接荘園との境界争いが多く,南西の仁和寺観音院末寺頭陀(ずだ)寺領川勾(かわわ)荘からの侵入により,1本の境杭を打つのに半年を要し,西境では南北の中間にも3本の脇杭を立てて境を守った。91年(建久2)神宮領御厨と争った。1343年(興国4・康永2)松尾神主相世と藤原氏女との間で荘支配をめぐって相論があったが,以後の経過は不明。
→池田宿
執筆者:鈴木 鋭彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報