われわれをとりまく森羅万象,そのすべてに名があるわけではない。名付けられたものもあれば,名付けられていないものもある。それは当該の文化と強い相関関係を持っている。
名を与えるという行為には,名付ける人と名付けられる対象とが関与している。そしてその行為の主体は,それぞれの文化を背負った名付ける人の側にある。つまり,名はある意味で名付ける人の側の〈世界像〉を示すものであり,典型的には世界のさまざまな神話にみられる〈名まえを持たぬものに対して名まえを与える状況=創造の状況〉といった多くのテキストが,命名という行為の本質を雄弁に物語っているとみることもできる。しかし,それが一方の真実であることはまちがいないにしても,他方で名を与えるという行為には,明らかに名付けられる対象自体の性質もかかわって,名付けられるものと名付けられないものとが出現すると考えられる。
対象にもさまざまの物あるいは現象,概念がある。それらには名付けられるべきものとして存在するものから,名付けられる保証のまったくないものまでの異なりがある。たとえば,大きくいえば生物の種は名付けられるべきものとして存在している。それは生物そのものの中にすでに区別・識別される秩序が存在しているからである。われわれは名を知らずとも鳥の種を区別することができる。それは名の存在以前にすでにそれをそれと認めていることを物語る。そして,実はこのことを基礎として生物の分類学は成立しているのである。また,いわゆる未開の人々の動物や植物の名付け方には,世界中を通して驚くほどの相似性が認められるのもこのゆえである。
一方,日本語で〈恩〉や〈義理〉と名付けられた概念は,必ずしもどの文化にも通ずるものではない。そうした概念は人類文化に普遍的なものではないから,それ自体がつねに名付けられるべき存在であるとは限らない。このような問題こそ,文化人類学が好んでとりあげる題材である。R.ベネディクトがとりあげた日本文化における〈恥〉,それに対比されるキリスト教世界における〈罪〉も,その一つの例としてあげることができるであろう。〈恥〉や〈罪〉は,それぞれの文化を背負った人々が概念化し,その特殊な概念に名を与えたものである。
時間,空間,色などに関する名は,名付ける側の文化的規定性と名付けられる対象自体の性質の中間に成立するものであろう。たとえば,時間そのものは連続的なものであり,それをどのように分節するかによって異なった概念および名が出現する。実際に世界各地においてさまざまの時間概念のあることが知られている。しかし一方で時間は,地球の自転や太陽のまわりを地球がまわるというような天文学的制約からは逃れられない。だから,一日や季節というものは認識されるべき現象として存在するといえる。また,色自体も連続的に変化するものであり,さらに色は,単に明度や色相,彩度によってだけできまるものではなく,さまざまな色概念が存在しうる。たとえば,フィリピンのミンドロ島南部に住むハヌノオ族では〈乾〉と〈湿〉の対立が色概念の中にとりこまれている。しかし,色を知覚する人間の目の生理学的制約も無視できない。白,黒,赤,黄,青,緑の6色は,人間の目の構造から知覚されるべき基本的な色として存在している。このように,さまざまな現象は生物学的,天文学的,あるいは人間の生理学的な制約を多かれ少なかれうけており,ほとんどの物,現象,概念は先に述べた両者のどこかに位置するものである。
ところで,このような対象の広がりと各文化による差異の中で,人々がある物,現象,概念に名を与えるかどうかは,その文化の中での必要性と相関しているという点では共通のようである。ただし,必要性の内容はかなり広くとらねばならないであろう。生存のための必要性から好奇心のための必要性まで含めなければならない。生物の種を例にとれば,どの文化においても有用生物種は必ず命名されており,他方,利用されない生物種は一般に名を持たない。それらの種は区別され認識されているにもかかわらず,名を持たない。しかし,文化によっては,実際的な用途を持たない種に対しても,なお名を付けることがある。好奇心あるいは人の知らぬことを知っていることがその文化においても高い評価を受けるならば,そうしたことも起こりうる。そして,そのときはすでに無用ではなく,一種の必要性を持っているといえるであろう。すなわち,必要性の中味はある程度まで文化とかかわっているのである。一般的にいって,人間を中心として心理的に人間に近いものには詳細な命名体系が存在し,遠くなるほど名はおおまかになり,そしてついには名が与えられなくなる。
ある物,現象,概念が名付けられるとき,ほとんどの場合,対象と名とは一対のものとして関係づけられているが,いったん名が確立されると,名はただちに独り歩きするようになる。たとえば家畜につけられた〈犬〉という名は,やがてイヌそのものを離れて,イヌの特徴的属性(たとえば従順,盲従)へと拡大され,人に対してもある意図をもって〈犬〉という名を用いることができるようになる。このような意味の拡大あるいは転用は,いろいろの名において普通に起こることである。そして,名は結果としていろいろの意味を持つ多義性を帯びてくる。時には元の意味さえ不明になるほどに変化することさえある。このような意味の拡大・転用は,詩やことば遊びの中でとくに頻繁に起こる。そして,それは名の持つ明快性を減少させる一方で,人間文化の内容をよりいっそう豊かなものにしているともいえる。
しかし,そのような中で固有名詞は例外的な存在であり,たとえばある人の名は(原則的に)その人以外を指し示すことがない。その意味で固有名詞というものは,有限の手段によってあらゆるものを名指すことのできる創造的な仕組みとしての自然言語の中で,拡大や転用とは無縁な一対一対応の(その意味で信号(シニャール)的な)特殊性を帯びているが,ロシアの記号論学者Yu.M.ロートマンらも指摘したように,逆にそれゆえにこそ,固有名詞は他の言葉以上に対象そのものを喚起する力を持っている。世界の神話にしばしば見られる固有名詞(とくに人名)の列挙の意味も,このような観点から神話的テキストの一特徴としてとらえることが可能であろう。
→人名 →地名 →分類
執筆者:吉田 集而