1612年、徳川家康が江戸城近くに創建。寛永の大火で焼失後、高輪へ移された。浅野家の
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東京都港区高輪にある曹洞宗の寺。山号は万松山(ばんしようざん)。赤穂浪士の墓で知られる。1612年(慶長17)徳川氏により外桜田に創建され,開山には大中寺(栃木県栃木市の旧大平町)の建室宗寅(けんしつそうえん)の弟子,門庵宗関(もんなんそうかん)(今川義元の三男ともいわれる)が迎えられた。41年(寛永18)現在地に移転し,浅野家,毛利家,朽木家などの菩提寺となった。江戸時代は橋場総泉寺,芝青松寺とともに曹洞宗江戸三ヵ寺の一つとして同宗の宗政を担当し,境内にあった9棟の学寮には100~200人の僧が修学していた。この学寮は二本松藩(福島県)丹羽(にわ)家からの年200俵の扶持米により維持されていた。第2次世界大戦中,本堂,庫裏(くり),鐘楼などを失ったが,山門,宝物館は焼失を免れた。1953年以降,諸堂が復興され,宝物館には大石良雄の書状や赤穂浪士関係のものが陳列されている。浅野内匠頭長矩(ながのり)夫妻,四十七士や,賤ヶ岳七本鎗の一人平野長泰などの墓がある。
執筆者:広瀬 良弘
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東京都港区高輪(たかなわ)にある曹洞(そうとう)宗の寺。万松(ばんしょう)山と号する。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1612年(慶長17)下野(しもつけ)国(栃木県)大中寺の門庵(もんあん)宗関(そうかん)が徳川家康の帰依(きえ)を受けて外桜田の地に創建したが、火災にあい、1641年(寛永18)現在の地に移った。1677年(延宝5)橋場(台東(たいとう)区)の総泉寺、愛宕(あたご)(港区)の青松(せいしょう)寺とともに曹洞宗江戸三か寺触頭(ふれがしら)となった。播州(ばんしゅう)(兵庫県)赤穂(あこう)浅野家の菩提(ぼだい)所で、1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が切腹すると、この寺に葬られ、03年大石良雄ら赤穂浪士が切腹して同じくこの寺に埋葬された。かつては福島二松城主丹羽(にわ)家の援助による泉岳寺学寮が設けられて、曹洞宗学徒の研修の場であった。寺内の玉垣の中に浅野長矩、同夫人瑤泉院(ようぜいいん)の墓があり、南の丘に四十七士の墓がある。
[菅沼 晃]
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…これが好評で,翌年1月連作の第1編として《江戸城の刃傷》《第二の使者》を一挙に上演してから40年1月の《御浜御殿》まで,左団次一座が演じた。以後《泉岳寺》を41年11月2世市川猿之助(のちの猿翁)が上演した。41年から3年間にわたり前進座が連続上演し,また溝口健二監督によって映画化(前編1941,後編1942)もされている。…
※「泉岳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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