泊浦(読み)とまりうら

日本歴史地名大系 「泊浦」の解説

泊浦
とまりうら

[現在地名]丸亀市本島町泊ほんじまちようとまり

本島の南部中央に位置し、南は海を挟んでうし島に対する。東は甲生こうしよう浦、北および西は山に囲まれる。本島の玄関口で、港から海岸線に沿って北東に集落を形成し、東側の集落はみやはまとよばれる。島中船方領の一浦で、宝永年間(一七〇四―一一)の集落規模は長さ一二〇間・幅五三間、宮ノ浜浦は長さ三四〇間・幅一四〇間(塩飽島諸事覚)。当浦一帯は松が浦とよばれ、「玉葉集」に収める従三位行能の「まつがうらのとまりの磯ときくものをなにもさはらず帰るなみかな」は当浦を詠じたとされる(玉藻集)。天正九年(一五八一)三月、インド管区巡察師アレッサンドロ・バリニャーノらが九州から上洛途中、泊に入港した(「一五八一年の日本年報」イエズス会日本年報)

天正一八年の当浦斗代による算定検地高は一四七石余、うち田三七石余・畑一一〇石余、慶長一一年(一六〇六)の検地高一六〇石余(同年田畑打出し所次第「島中集旧記書」塩飽勤番所顕彰保存会蔵)。宝永元年の人名数は六五〇人のうち九〇人(古加子六二・新加子二八)と船方領中最大(「島中納方配分之覚」前掲諸事覚)

泊浦
とまりうら

[現在地名]小浜市泊

堅海かつみ浦の西にあり、内外海うちとみ半島の最北に位置する漁村。背後に久須夜くすやヶ岳から西へ延びる枝峰の通称おお(三〇四メートル)を控え、南は小浜湾。天文九年(一五四〇)三月一一日付武田信豊加判右京進奉下知状(飯盛寺文書)に「泊浦薬師堂」とみえる。天正一六年(一五八八)七月の堅海・泊・仏谷検地帳写(野村家文書)があり、慶長七年(一六〇二)の若狭国浦々漁師船等取調帳(桑村家文書)には四人乗船七艘、一人乗八艘が記され、小村のわりに船数が多い。

泊浦
とまりうら

[現在地名]坊津町泊

泊村にあった浦。寛政一二年(一八〇〇)書写の諸郷村附並浦附(県立図書館蔵)などに泊浦とみえる。「三国名勝図会」によると、泊湊は南のから(坊村の坊津湊)の支港で、両港は西に延びる西にしで分けられている。近世以前から交易港として知られる一方、漁業も早くから行われていた。天和―貞享(一六八一―八八)頃には泊浦の赤崎市左衛門が鰹船二隻で操業していた(「坊津拾遺誌」坊津町歴史民俗資料館蔵)。延宝八年(一六八〇)浦人三五一人に対し三〇人に一人の浦水手役、七七人に一人の雇水手役を課され、魚運上銀は一一匁と定められていた(列朝制度)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「泊浦」の意味・わかりやすい解説

泊浦 (とまりのうら)

現在の三重県鳥羽市。志摩国の北端,伊勢国との国境に位置した。近世以降の〈鳥羽浦〉に当たるが,中世以前は〈泊浦〉と書き〈とまりのうら〉,それがなまって〈とばのうら〉といわれるようになったのであろう。熊野灘と遠州灘という二つの海上交通の難所の間に位置し,しかも海岸線の出入りが多く,大小の島に囲まれた天然の良港であるため,古くから船舶の寄泊地となっていて,そこから泊浦の名がおこったと考えられている。古代には泊浦御厨とよばれ,伊勢内宮の所領であった。中世以前には伊勢・志摩両国はしばしば混同され,鎌倉時代における二所大神宮神領である神戸,御厨,御園などを国別に類聚した《神鳳鈔(じんぽうしよう)》には,泊浦御厨は伊勢・志摩両国にそれぞれ記載されている。中世の泊浦は妙慶川を境として北側が小里(こさと),南側が大里(おおさと)とよばれていたが,南北朝時代にこのうちの小里を〈(伊勢)度会(わたらい)郡小里江向〉と記載した史料がある一方,〈島(志摩)国泊小里郷〉としたものもある。この時期には,小里は醍醐寺三宝院の末寺であった伊勢国棚橋法楽寺の所領,大里は伊勢内宮領泊浦御厨のうちに含まれていた。また同じころ,泊浦には伊勢国の守護所が置かれていた。守護所が置かれていたのが大里か小里かは明らかでないが,南北朝時代の伊勢・志摩両国は1人の守護が兼帯するのが例であり,室町幕府が地方行政上この2国を1国として扱っていたとする見解もあって,あるいはそのために両国の国境に位置し,交通の要衝でもあった泊浦に守護所が置かれたのかもしれない。南北朝内乱期の泊浦は重要な戦略拠点とみなされ,しばしば戦闘の舞台ともなった。

 この地は古くから港湾として機能しており,鎌倉時代から南北朝時代に入ると〈住民廻船に従事す〉とか〈廻船の在所にて候間,一御用にも立ち申すべく候也〉などと史料に見え,泊浦が海運業者の基地の一つになっていたことが知られる。そうした海運の発達にともなって海賊行為をはたらく者も現れたらしく,伊勢の光明寺の僧が泊浦小里において船および積荷を抑留する海賊行為に及んだとして訴えられた事例が史料に見える。こうした港湾機能を背景に,中世を通じて泊浦は志摩国の中心地として軍事上・経済上の要地であった。南北朝時代には,南朝方の伊勢国司北畠氏が志摩国を勢力下におき,室町時代に入ってもなお勢力を維持した。室町時代後期には北畠氏に属した橘氏が泊浦を領して岩崎山上にとりでを築いて一帯を支配し,出入りの船から関銭(帆別銭)を徴したという。ついで戦国時代に至り,紀伊国熊野地方からおこった九鬼氏がこの地を領して城下町を建設した。
鳥羽
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世界大百科事典(旧版)内の泊浦の言及

【志摩国】より

…【水野 柳太郎】
【中世】
 中世になると当国の境界は不明確となる。すなわち答志郡では泊浦(とまりのうら)(鳥羽)がしばしば伊勢国と称され,英虞郡では現在度会郡に属する地域で,すでに鎌倉中期に錦島御厨(紀勢町),吉津御厨(南島町)が伊勢国とされ,内瀬御園(南勢町)にも伊勢,志摩二通りの記載がみられる。とくに室町時代に北畠氏の勢力がこの地域に浸透するとこの傾向が促進され,やがてこれらの御厨等は度会郡に編入されてしまった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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