熊本洋学校(読み)クマモトヨウガッコウ

デジタル大辞泉 「熊本洋学校」の意味・読み・例文・類語

くまもと‐ようがっこう〔‐ヤウガクカウ〕【熊本洋学校】

明治4年(1871)米国人ジェーンズ教師に招いて熊本城内に創立された学校欧米学問を教授し、キリスト教主義の教育を行った。浮田和民海老名弾正徳富蘇峰らを輩出

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精選版 日本国語大辞典 「熊本洋学校」の意味・読み・例文・類語

くまもと‐ようがっこう‥ヤウガクカウ【熊本洋学校】

  1. 明治四年(一八七一熊本藩が創立した学校。アメリカ人ジェーンズを招き、キリスト教精神を基盤に欧米の科学技術をとり入れて人材養成をはかったもの。海老名弾正、徳富蘇峰、小崎弘道、浮田和民らを輩出した。同九年廃校。白川県洋学校。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊本洋学校」の意味・わかりやすい解説

熊本洋学校
くまもとようがっこう

1871年(明治4)熊本城内に「純然たる泰西(たいせい)文明風の学校」として創設された学校。1870年の藩政改革で教育改革に着手し、藩校時習館を廃止して、西洋の文物技術・思想を輸入することを主目的に、アメリカ人ジェーンズを招聘(しょうへい)して開校した。4年制、学生数200人。学科目は読方、習字のほかに、演説地理学、万国史、測量学、化学、星学、人体学などの西洋学を中心とし、原語・原書による徹底した英語教育授業であった。特色は開発的自学自習、班別指導、演説(英語)の練習で男女共学方式をとった。生徒には小崎弘道(こざきひろみち)、横井時敬(よこいときよし)、海老名弾正(えびなだんじょう)、金森通倫(かなもりつうりん)、徳富猪一郎(いいちろう)(蘇峰(そほう))らがみられる。とくにジェーンズのキリスト教教育は、生徒にキリスト教思想を鼓吹した。生徒らは、1876年1月30日には花岡山(熊本市)で奉教結盟を行い、熊本バンドを結成し、近代日本プロテスタントの一潮流となった。1876年8月、ジェーンズの任期切れをもって廃校となる。生徒たちのなかには同志社(現大学)に移った者も多い。

[森山恒雄 2018年3月19日]

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百科事典マイペディア 「熊本洋学校」の意味・わかりやすい解説

熊本洋学校【くまもとようがっこう】

1871年熊本城内に設けられた熊本藩立の学校。横井小楠の流れをくむ肥後実学派によって興され,米軍人ジェーンズを迎えて自然科学・地理・歴史などを教えた。キリスト教結社の一つ熊本バンドの問題にからんで5年後に廃校。海老名弾正小崎弘道徳富蘇峰らが学ぶ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「熊本洋学校」の解説

熊本洋学校
くまもとようがっこう

1871(明治4)年,熊本藩が設置した洋式の藩士教育機関
横井小楠に指導された実学党が熊本藩政を握ると,アメリカ軍人ジェーンズを招き,薩摩・長州に対抗できる人材養成を目標に教育を行った。徳富蘇峰・海老名弾正 (えびなだんじよう) らを育てたが,'76年廃校。生徒の一部は同志社に移った。

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世界大百科事典(旧版)内の熊本洋学校の言及

【熊本バンド】より

…熊本洋学校に学び,キリスト教に入信し,同志社英学校に学んだ人々。熊本洋学校は横井小楠の流れをくみ,洋学を教え,国家に有為の人物養成を目ざして自由で規律ある開発教育をした。…

【ジェーンズ】より

…陸軍士官学校を卒業,南北戦争に従軍し,士官学校で教え,大尉として退官した。熊本藩の招きで,西欧の学問を教えるために1871年来日し,熊本洋学校の教頭となった。キリスト教的信念に立つ全人格教育を唱え,寄宿舎で学生と生活を共にし,厳しいが豊かな愛情で生活訓練をし,彼らの品性と能力をひき出す開発教育をした。…

※「熊本洋学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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