牧之原(市)(読み)まきのはら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧之原(市)」の意味・わかりやすい解説

牧之原(市)
まきのはら

静岡県中南部にある市。2005年(平成17)榛原(はいばら)郡相良町(さがらちょう)、榛原町が合併して市制施行、牧之原市となる。東は駿河(するが)湾に臨み、市域の北部は牧ノ原台地、南部は地頭方(じとうがた)丘陵。その間を萩間(はぎま)川が南東流し、沖積低地を形成。また牧ノ原台地を開析しながら坂口谷(さくちや)川、勝間田(かつまた)川が流れる。海岸部を国道150号、内陸部を同473号が縦断し、北部を横断する東名高速道路に相良牧之原インターチェンジがある。古代から中世にかけて、南部域に相良荘が、北部域には勝田(かつまた)荘などが成立。相良荘は牛牧を主体とする荘園で、相良氏が寄進や経営に関与したという。勝田荘を本貫とする勝田氏は勝間田城(城跡は県指定史跡)を本城とした。1576年(天正4)甲斐武田氏が萩間川右岸に相良城(古城)を築城。武田氏滅亡後、徳川家康が相良城を改修、鷹狩の拠点とし、相良御殿とよばれた。このころ、新(しん)、前浜(まえばま)、市場(いちんば)の相良3町が成立。家康の死後、相良御殿は荒廃したが、1758年(宝暦8)に相良藩主となった田沼意次は、新たに相良城を築いた。築城に際して意次は、従来の街道を改修し、城下から志太(しだ)村(藤枝市)で東海道に接続する田沼街道相良街道)を整備。また萩間川河口の相良湊起点掛川(かけがわ)宿、秋葉山(浜松市)を経て信州へ通じる秋葉街道(信州街道)も通じていた相良城下は、水陸交通の結節点として繁栄する。なお前出相良3町と隣接する福岡(ふくおか)町をあわせて相良城下4町と称した。商港・漁港を兼ねる相良湊は、家康が相良御殿を訪れる際に、その送迎、荷物運搬のため、相良新町の名主治左衛門が廻船問屋を開いたという。江戸前期には年貢米や茶を積み出し、その後は薪炭、椎茸、相良の塩・石灰、干物なども江戸へ積み出されるようになった。幕末に横浜が開港されると茶が主要輸出品となり、牧ノ原台地の各地を開墾して茶園が開かれる。しかし安政東海地震による河床隆起と、茶園造成による大量の土砂流出で、萩間川の浚渫が追いつかず、相良湊はしだいに衰退した。

 現在は牧ノ原台地での茶栽培ほか、各河川沿いの平坦地で米、レタスの栽培、海岸部での露地野菜、施設園芸が行われ、シラス船曳網を主体とした沿岸漁業やワカメ養殖も盛ん。工業では自動車、電子関連などの工場が進出、中央部に白井(しらい)工業団地も造成されている。2009年、市の北部、島田市とまたがる地に静岡空港が開港。勝間田川を挟んで東に静波(しずなみ)、西に鹿島(かしま)の両海水浴場があり、多くの海水浴客でにぎわう。上杉憲藤の開基という平田寺(へいでんじ)が所蔵する聖武(しょうむ)天皇勅書は国宝、また平田寺文書47点は県指定有形文化財。江戸中期に相良4町の廻船問屋・船主・水主らが祭礼に菱垣廻船・樽廻船の模型を寄進、この模型船が神幸行列の先導を勤める大江八幡神社の御船行事は国指定重要無形民俗文化財。長屋門の棟札に1781年(安永10)の銘がある大鐘家住宅(おおかねけじゅうたく)は国指定重要文化財。明治・大正時代に活況を呈した相良油田(1955年廃鉱)は太平洋側で稼動した唯一の油田で、跡地は油田の里公園として整備され、近代化産業遺産に認定された。油井1杭は県指定天然記念物。面積111.69平方キロメートル、人口4万3502(2020)。

[編集部]


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