牧之原(読み)マキノハラ

デジタル大辞泉 「牧之原」の意味・読み・例文・類語

まきのはら【牧之原】

静岡県中西部にある市。駿河湾に臨み、西部の牧之原台地からの斜面で茶栽培が盛ん。平成17年(2005)10月相良町榛原はいばら町が合併して成立。人口4.9万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「牧之原」の解説

牧之原
まきのはら

牧ノ原・牧の原とも書き、布引ぬのびき原ともよばれた。大井川下流右岸に展開する洪積台地で、北は榛原金谷かなや町・島田市初倉はづくら、東は榛原郡吉田よしだ町・榛原町相良さがら町、南は相良町・小笠おがさ浜岡はまおか町、西は同郡菊川きくがわ町・小笠町・浜岡町にまたがり、また一部は掛川市・榛原郡御前崎おまえざき町をも含む二市八町により構成される地域。大井川の氾濫原が隆起して形成されたとされ、相良層・掛川層・古谷泥層などに砂礫が混じり、水はけ・水もちともによくお茶の生育に適していた。また西側の小笠平野などでは山霧と大井川の川霧がかかるため、紫外線を防ぎ柔らかなお茶の葉ができる。標高は北部が高く約二七〇メートルあり、南端部の標高は四〇―五〇メートル、南北二五キロに及ぶ。地形は北部から南部にかけて緩やかに傾斜しており、金谷町切割きりわり峠以南を牧之原と考えれば、ここを基点として東部から南部にかけて大きな手を広げた形をしており、台地を浸食した谷が複雑に入組んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「牧之原」の意味・わかりやすい解説

牧之原[市] (まきのはら)

静岡県中南部の市。2005年10月相良(さがら)町と榛原(はいばら)町が合体して成立した。人口4万9019(2010)。

牧之原市中南部の旧町。旧榛原郡所属。人口2万6290(2000)。牧ノ原台地南東部に位置し,東は駿河湾に臨む。古くは相良郷,相良荘があり,江戸中期以降は田沼意次が築いた相良城の城下町,萩間川河口の港町として栄えた。1872年(明治5)に菅山で採掘が始まった相良油田は,太平洋岸で唯一の油田として知られたが,1955年以降休止している。主産業は農漁業で,牧ノ原台地を開析して流れる萩間川,菅ヶ谷川などの小河川の下流域には水田が開ける。傾斜地や台地上はミカンや茶の栽培が盛んで,海岸砂地ではメロン,スイカが栽培される。漁業は近海漁業を中心に行われ,特産物にワカメがある。近年,海岸沿いに走る国道150号線が整備され,東名自動車道相良牧之原インターチェンジも開設されて大企業が進出している。史跡が多く,臨済宗の古刹(こさつ)平田(へいでん)寺には国宝の〈聖武天皇勅書〉があり,江戸時代の民家,片浜の大鐘家住宅は重要文化財に指定されている。
執筆者:

平安時代の《和名抄》の郷名としてみえ,中世は蓮華王院領の荘園であった。また平安時代にこの地に土着し,鎌倉時代に肥後国人吉荘地頭職に補任され,後に人吉藩主となった相良氏の出身地でもある。1576年(天正4)武田氏の遠州侵攻にともなって築城されるが,武田氏滅亡後廃城となる。しかし,近世に入って新町,次いで市場町,前浜町,そして福岡町と順次町並みができた。1710年(宝永7)本多忠晴の入封により相良藩が成立し,とくに58年(宝暦8)に田沼意次が入封して大いに発展した。明和年間(1764-72)には築城が許され,城下の町並みが整備された。また相良湊を拡張・整備して,大坂~江戸間の海上交通の中継港とし,さらに相良湊と東海道藤枝宿とを結ぶ相良街道(田沼街道)を整備するなど,産業の発展がはかられた。しかし,田沼氏が失脚して廃藩,城も破却されるが,その後藩は再興して幕末に至る。
執筆者:

牧之原市北部の旧町。旧榛原郡所属。人口2万5382(2000)。牧ノ原の東部に位置し,駿河湾に面する。牧ノ原には広大な茶園やミカン園が広がり,ほとんどの農家が茶を栽培し,製茶工場も多い。勝間田川や坂口谷川の低地には水田が開け,温暖な海岸地帯はダイコン,スイカ,メロンの産地となっている。養豚,養鶏,ウナギ養殖も行われる。国道150号線が通じ,近年電気機械器具などの工場も進出している。静波海水浴場や豪族勝間田氏が居城した勝間田城跡がある。2009年,北部に富士山静岡空港が開業した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧之原」の意味・わかりやすい解説

牧之原(市)
まきのはら

静岡県中南部にある市。2005年(平成17)榛原(はいばら)郡相良町(さがらちょう)、榛原町が合併して市制施行、牧之原市となる。東は駿河(するが)湾に臨み、市域の北部は牧ノ原台地、南部は地頭方(じとうがた)丘陵。その間を萩間(はぎま)川が南東流し、沖積低地を形成。また牧ノ原台地を開析しながら坂口谷(さくちや)川、勝間田(かつまた)川が流れる。海岸部を国道150号、内陸部を同473号が縦断し、北部を横断する東名高速道路に相良牧之原インターチェンジがある。古代から中世にかけて、南部域に相良荘が、北部域には勝田(かつまた)荘などが成立。相良荘は牛牧を主体とする荘園で、相良氏が寄進や経営に関与したという。勝田荘を本貫とする勝田氏は勝間田城(城跡は県指定史跡)を本城とした。1576年(天正4)甲斐武田氏が萩間川右岸に相良城(古城)を築城。武田氏滅亡後、徳川家康が相良城を改修、鷹狩の拠点とし、相良御殿とよばれた。このころ、新(しん)、前浜(まえばま)、市場(いちんば)の相良3町が成立。家康の死後、相良御殿は荒廃したが、1758年(宝暦8)に相良藩主となった田沼意次は、新たに相良城を築いた。築城に際して意次は、従来の街道を改修し、城下から志太(しだ)村(藤枝市)で東海道に接続する田沼街道(相良街道)を整備。また萩間川河口の相良湊を起点に掛川(かけがわ)宿、秋葉山(浜松市)を経て信州へ通じる秋葉街道(信州街道)も通じていた相良城下は、水陸交通の結節点として繁栄する。なお前出相良3町と隣接する福岡(ふくおか)町をあわせて相良城下4町と称した。商港・漁港を兼ねる相良湊は、家康が相良御殿を訪れる際に、その送迎、荷物運搬のため、相良新町の名主治左衛門が廻船問屋を開いたという。江戸前期には年貢米や茶を積み出し、その後は薪炭、椎茸、相良の塩・石灰、干物なども江戸へ積み出されるようになった。幕末に横浜が開港されると茶が主要輸出品となり、牧ノ原台地の各地を開墾して茶園が開かれる。しかし安政東海地震による河床隆起と、茶園造成による大量の土砂流出で、萩間川の浚渫が追いつかず、相良湊はしだいに衰退した。

 現在は牧ノ原台地での茶栽培ほか、各河川沿いの平坦地で米、レタスの栽培、海岸部での露地野菜、施設園芸が行われ、シラス船曳網を主体とした沿岸漁業やワカメ養殖も盛ん。工業では自動車、電子関連などの工場が進出、中央部に白井(しらい)工業団地も造成されている。2009年、市の北部、島田市とまたがる地に静岡空港が開港。勝間田川を挟んで東に静波(しずなみ)、西に鹿島(かしま)の両海水浴場があり、多くの海水浴客でにぎわう。上杉憲藤の開基という平田寺(へいでんじ)が所蔵する聖武(しょうむ)天皇勅書は国宝、また平田寺文書47点は県指定有形文化財。江戸中期に相良4町の廻船問屋・船主・水主らが祭礼に菱垣廻船・樽廻船の模型を寄進、この模型船が神幸行列の先導を勤める大江八幡神社の御船行事は国指定重要無形民俗文化財。長屋門の棟札に1781年(安永10)の銘がある大鐘家住宅(おおかねけじゅうたく)は国指定重要文化財。明治・大正時代に活況を呈した相良油田(1955年廃鉱)は太平洋側で稼動した唯一の油田で、跡地は油田の里公園として整備され、近代化産業遺産に認定された。油井1杭は県指定天然記念物。面積111.69平方キロメートル、人口4万3502(2020)。

[編集部]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「牧之原」の意味・わかりやすい解説

牧之原[市]【まきのはら】

静岡県南部に位置する市。牧ノ原台地の東部を占める。2005年10月,榛原郡相良町,榛原町が合併し市制。東名高速道路,国道150号線,473号線が通じる。市北部に富士山静岡空港が2009年6月開港。111.69km2。4万9019人(2010)。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android