幕末・明治の文人画家。名は芸,幼名瑞白また頼助。号は梅渓,白石山房,七里香草堂,蓮岱山房,後楽堂などあり,晩年に字の草雲を号とした。下野足利藩士で,江戸小石川の藩邸に住したが,21歳のとき藩邸を脱して流寓,加藤梅翁の家僕となって絵を学んだ。谷文晁や渡辺崋山の画風を慕い,また沈南蘋(しんなんぴん)や盛茂燁(せいもよう)をはじめ,さまざまな中国絵画にも深い関心を示した。生来俠気にあふれ,剣道をたしなんで剣客とも往来したが,皇室の衰微を嘆いて梁川星巌,藤本鉄石らと交わって国事を議した。明治維新に至って急に足利へ帰り,同志を募ってついに誠心隊を組織するなど,草莽の志士として活動した。維新後は郷里で絵に専念し,1888年皇居造営に際して杉戸絵を描き,第1回帝室技芸員となった。
執筆者:佐々木 丞平
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幕末から明治の南画家。名は芸(うん)。初め字(あざな)を草雲としたが、32歳以後はこれを号とする。足利(あしかが)藩江戸藩邸に下級武士の長男として生まれる。父から南画の手ほどきを受け、8歳のころ谷文晁(ぶんちょう)門下で姻戚(いんせき)にあたる金井烏洲(かないうしゅう)につき、のち加藤梅翁のもとで和歌や四条派の画風を習得。春木南溟(なんめい)にも学んだ。39歳のとき足利藩に絵師として仕えたが、幕末には藩校の設立、また勤皇家として民兵誠心隊を組織するなど国事に奔走。維新後は足利に住んで画業に専念し、第1回内国勧業博覧会ほかの展覧会に出品して賞牌(しょうはい)を受け、1890年(明治23)には第1回帝室技芸員となっている。代表作に『秋山晩暉(しゅうざんばんき)図』などがある。
[星野 鈴]
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(佐藤道信)
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