田野浦(読み)たのうら

日本歴史地名大系 「田野浦」の解説

田野浦
たのうら

[現在地名]田野町 北町・西町・立町・新町など

田野村のうち海岸部にできた浦方で「土佐州郡志」は「東限奈半利界大川、西限安田浦、東西拾町余、戸凡五百七拾六、船六十二」と記し、「寺町・北町・目籠・西町・横町・立町・東町・前町・新町・浜田町」の小名を記す。海岸沿いに土佐街道(東街道)が通る。

天正一七年(一五八九)の田野庄地検帳によると田野八幡宮の前から東方浜田はまだにかけて、「新ヒラキヤシキ」「浜田屋敷」などとよばれる区域が続き、そこには三〇筆余の屋敷が記される。多くは開かれてまもないらしく「下ヤシキ」「下下スナヤシキ」などの注記が目立つ。それより東、現在町の中心になっている付近には人家はなく、「シヲツキ」(潮漬き)と注記された下田が記され、さらに東、奈半利なはり川河口へと葦の茂った入江や荒地が続いていたようである。浜田屋敷付近の三〇戸ほどが創成期田野浦の住民であったらしく、彼らは漁業のかたわら周辺に畠を開き、二四筆記される塩浜で塩を焼いて生活していた。慶長八年(一六〇三)の東浦船頭水主帳では、水主八人のほか庄屋小使二軒、田作り百姓一八軒とあり、総数において前記地検帳と符合する。水主予備軍である零細農民を多く含んだ漁村と農村の中間的地域であった。

江戸時代に入って半世紀の間に田野浦は急激に発展するが、これは漁業集落としての自然成長によるものではなく、藩が奈半利川上流の魚梁瀬やなせ(現馬路村)の木材を積出すために川港を整備し、藩の御用をつとめる廻船商人を中心に経済活動が活発化した結果であった。元和改革に参画した仕置役小倉少助は、魚梁瀬山の良材二五〇万本を毎年五万本ずつ伐採する計画を立て、その積出しのため奈半利川河口の港を改修整備した。


田野浦
たのうら

[現在地名]門司区田野浦一丁目など

関門海峡に臨む湊。小倉領内の有力な湊で、船繋浦四浦のうち(天保九年「巡見上使御答書」県史資料二)。御参府之節浦方定水夫之覚(豊前叢書)では水主役六人。寛永六年(一六二九)備後の船(乗員一三名)が中国方面で突いた鯨一頭を「田の浦」で水揚げしているが(永青文庫蔵「日帳」同年正月二九日条など)、「西遊雑記」に「田の浦は漁家ばかりの浦」と記される。正保国絵図では「東南風ノ時船掛吉」と記される。当地には「田之浦之御茶屋」(「日帳」寛永八年閏一〇月一〇日条)、遠見番所(延享三年「巡見上使御答書」県史資料二)、唐物抜荷改場所が置かれていた(天保九年巡見上使御答書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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