白井城(読み)しろいじょう

日本の城がわかる事典 「白井城」の解説

しろいじょう【白井城】

群馬県渋川市白井(旧子持村)にあった室町~江戸時代初期の城郭。群馬県指定史跡。関東管領家の山内上杉氏に仕えた白井長尾氏の居城。山内上杉氏の家宰であった長尾景仲が築城したともいわれる。築城時期は特定されていないが、享徳の乱(1455~83年)の時期に築城されたのではないかとも推定されている。白井長尾家では景仲の子の景信の死後、山内上杉家の家宰職と白井長尾家の家督を長尾忠景(景信の弟)が継いだことから、景信嫡男の長尾景春が反発。これがその後、関東管領家と古河公方の対立を巻き込んで長尾景春の乱(1476~80年)と呼ばれる大規模な戦乱に発展した。鉢形城を築いて立て籠もった景春に対し、関東管領の上杉顕定と長尾忠景は白井城を拠点として対抗した。この戦乱では、白井城は景春と同盟する古河公方・足利成氏の攻撃を受けたこともある。1527年(大永7)、城主の長尾景誠(景春の孫)が家臣に暗殺されたことから、総社長尾家から長尾憲景が入って城主となったが、このころから白井長尾氏の勢力が衰え始め、箕輪城の長野氏などに圧迫されるようになる。北条氏の上野国進出により、山内上杉氏(上杉憲政)が越後に逃れた後、白井城は山内上杉氏の名跡を継いだ上杉謙信の勢力下に入った。謙信は白井城が越後と関東を繋ぐルートの隘路にあったことから重視し、関東出陣の際の拠点とした。その後、甲斐の武田信玄が上野国に進出を果たしたが、その過程の1560年(永禄3)、白井城は武田の部将の真田幸隆・信綱により落城した。その後、白井長尾氏は城を奪還し上杉氏の傘下に入ったが、上杉氏の内乱(御館の乱)で上杉景虎上杉景勝に敗れると、城主の長尾憲景は敵対していた武田氏の傘下に入って北条氏に対抗した。しかし、武田氏滅亡後の1582年(天正10)に宿敵北条氏に臣従した。そのため、1590年(天正18)の小田原の役(豊臣秀吉の北条氏攻め)では北条方につき、攻め寄せた豊臣方の軍勢(前田、上杉氏)に城を開城し、白井長尾氏は滅びた。徳川家康が関東に国替えになると、白井城には本多康重が2万石で入城したが、その後城主はめまぐるしく変わった。1618年(元和4)には、康重の次男本多紀貞が1万石の白井藩主として白井城に入ったが、1623年(元和9)に継嗣のないまま死去したため、白井藩は廃止され、それに伴い白井城は廃城・破却となった。現在、城跡の大部分は宅地や農地になっているが、本丸、二の丸の周囲の堀は比較的良好な状態で現存するほか、土塁や石垣などが残っている。JR上越線渋川駅からバスで桜の木鯉沢四つ角下車、徒歩約15分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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