改訂新版 世界大百科事典 「真継家」の意味・わかりやすい解説
真継家 (まつぎけ)
戦国時代から江戸時代を通じて,蔵人所(くろうどどころ)小舎人(こどねり)=御蔵職(おくらしき)を世襲した地下(じげ)の官人。室町時代以前の出自,系譜は不明(《地下家伝》の系譜は江戸時代の偽作)。真継弥兵衛尉の名が1526年(大永6)の〈賦引付(くばりひきつけ)〉に見られる。34年(天文3)《言継卿記(ときつぐきようき)》に見える京の〈六町〉の住人真継(松木)新九郎は,幼少から柳原家に奉公,一時甘露寺家に仕えたが柳原家に帰参した。その子真継弥五郎久直も柳原家に仕え,小野姓を名のっている。新九郎・久直父子は,蔵人所小舎人,灯炉供御人(くごにん)(鋳物師(いもじ))年預(ねんよ)職を相伝する紀氏の末裔御蔵新見山城守有弘の借銭を立て替え,39年久直はその養子となり,有弘がいったん子息忠弘に譲った御蔵職,鉄公役(くやく)諸国金屋職をあらためて譲与され,43年に後奈良天皇綸旨によってこれを安堵された。こうして有弘の跡職を奪った久直は,45年兵庫頭となり,翌年忠弘の甥富弘の訴訟をしりぞけると,諸国の戦国大名に働きかけて各地の鋳物師の再組織にのり出し,織豊期にかけて孫康綱とともに近世の鋳物師組織をほぼ確立した。86年(天正14)久直は後陽成天皇即位のさい諸国鋳物師から祝儀銭を徴収,これを慣例化し,伊豆守となった。ついで康綱は江戸幕府から鋳物師支配を承認されるとともに,1609年(慶長14)伊勢神宮の式年遷宮に当たり子息康利(親当)とともに斎部姓に改姓,奉幣使となり,14年には総奉行片桐且元の下で諸国の鋳物師を動員して方広寺の鐘を鋳造する。また17年(元和3),22年に康綱,康利は日光奉幣使とともに関東に下向,真継家は以後,伊勢,日光の例幣使の役を務めることとなる。康利のあと,親賢,その養子久忠,子息玄以が継承,この間,鋳物師支配はいったん弛緩するが,玄以の養子珍弘のとき,元禄~享保(1688-1736)以後〈御蔵真継〉の朱印を用いた鋳物師職許状を発給し,支配の再建に力を注いだ。以後,これを受け継いだ矩弘,〈由緒正印〉の朱印を使った量弘,〈禁裏諸司〉の肩書を付した康寧など,鋳物師に対する真継家の支配は天皇を背景にいっそう権威的になっていったが,則能のあとを継いだ能弘の発給した1870年(明治3)の許状を最後に,真継家の鋳物師支配はその実質を失った。
真継文書
真継家は久直以来の鋳物師支配,地下官人としての活動にかかわる明治初年までの多くの文書,典籍を伝えており,その中には各地の鋳物師の所蔵した中世文書の写しも多く,これらは鋳物師の組織,下級公家の実態の研究に資するところ大である。そのほとんどすべては,楠家の手を経て名古屋大学文学部の所蔵となり,中世文書は同学部国史研究室編《中世鋳物師史料》として刊行されている。
執筆者:網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報