真行寺(読み)しんぎようじ

日本歴史地名大系 「真行寺」の解説

真行寺
しんぎようじ

[現在地名]高松市扇町一丁目

おうぎ町一丁目の南辺にある。西隣は常福じようふく寺。松林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寛永一八年(一六四一)鋳造の銅鐘(銘は高松藩儒臣岡部拙斎撰)、寺領証文などを蔵する(讃岐国名勝図会)。暦応四年(一三四一)正賢の創建と伝え、初め宝蔵ほうぞう寺と称した。天正一六年(一五八八)生駒一正の保護を受け、野原西浜の安楽寺のはらにしはまのあんらくじ屋敷(現JR高松駅構内付近)のうち一町四方を与えられ、寺門中海陸の諸公事も免除されて(同年九月一三日「八条政次判物写」寺蔵文書)、寺を建立、のち真行寺と改めた(御領分中寺々由来)


真行寺
しんぎようじ

[現在地名]姫路市砥堀

いち右岸にある。有明山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。姫路船場本徳寺開基縁起(龍谷大学図書館蔵)英賀来由并帰参一件などによると、文明年中(一四六九―八七)蓮如の直弟子で摂津多田ただ(現川西市)の住人祐全が英賀あがに道場を開いた。英賀の三木徳正(英賀城主三木通安の長弟)帰依を受け、その後播磨に真宗道場が次々と建てられるようになった。当寺は播磨三道場の一つ砥堀とほり道場として創建された。開基は常心。砥堀道場は北方への発展の拠点道場として位置付けられ、市川流域に真宗を浸透させる役目を担った。江戸時代初期真宗が東西両派に分裂すると東本願寺派(現大谷派)に属したが、その後池田輝政により一時期西本願寺派に転派させられた。


真行寺
しんぎようじ

[現在地名]豊科町大字高家 真々部

真々部氏館跡北方の飯田いいだ(現豊科町)に通ずる真行寺小路にある。松本城下の真宗正行しようぎよう寺末。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、初め東泉坊といい、開祖釈勝道は姓は小笠原氏で、永禄一二年(一五六九)正月六日に没している。八世明喜庵釈良生(貞享三年五月二四日没)の時に真行寺を称す。

慶安四年(一六五一)検地帳(豊科町役場蔵)に屋敷二段五畝三歩、上田一段五畝九歩、下畑六畝一二歩を除地とされている。


真行寺
しんぎようじ

[現在地名]東和町下小山田 北小山田

北小山田きたおやまだ集落の中央部、西流するきぬ川の右岸にある。熊谷山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、和賀薩摩守義治の家臣熊谷新助が弘治元年(一五五五)本願寺顕如に帰依、得度後の法名を釈真行と称した。翌二年小山田村巣古田に小庵を建て真行坊と号した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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