石上宅嗣(読み)イソノカミノヤカツグ

デジタル大辞泉 「石上宅嗣」の意味・読み・例文・類語

いそのかみ‐の‐やかつぐ【石上宅嗣】

[729~781]奈良後期の廷臣。大納言万葉集に和歌、唐大和上東征伝経国集に詩がのっている。私宅に多数の漢籍を置いてうんていと称し、好学の人たちに開放したのが、日本の図書館の最初といわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「石上宅嗣」の意味・読み・例文・類語

いそのかみ‐の‐やかつぐ【石上宅嗣】

  1. 奈良時代の文人、貴族。号、芸亭居士(うんていこじ)経史、詩文に長じ、その儒書をおさめた芸亭は、日本最初の図書館といわれる。天平元~天応元年(七二九‐七八一

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改訂新版 世界大百科事典 「石上宅嗣」の意味・わかりやすい解説

石上宅嗣 (いそのかみのやかつぐ)
生没年:729-781(天平1-天応1)

奈良時代の文人,政治家。古代の豪族物部氏の一族石上氏の出身で,祖父左大臣麻呂,父は中納言の乙麻呂である。宅嗣は才敏で姿,ようすがすぐれ,言語,動作が閑雅であったと伝える。はじめ相模,三河,上総などの国守を歴任,761年(天平宝字5)に遣唐副使に任ぜられたが,翌年なぜかこの職を解かれている。このころ,藤原良継らとともに,当時の実力者藤原仲麻呂を除こうと企てたが,良継がひとり責を負って罪を許されたという。その後,大宰少弐,常陸守などを経て,765年(天平神護1)には参議となった。770年(宝亀1)に称徳天皇が没した際は,藤原氏とともに光仁天皇の擁立に動いた。光仁朝では大宰帥,中納言,中務卿,大納言,式部卿などの要職を務め,781年,53歳で没している。晩年には後の桓武天皇を指導する皇太子傅(ふ)の地位にもあった。宅嗣は書物を愛し書に巧みで,詩文を作る才に秀で,淡海三船(おうみのみふね)とならぶ奈良朝後半の代表的文人であった。その詩は《経国集》に収められている。彼の信条儒教,仏教の調和にあり,仏教にも帰依して自宅を阿閦寺(あしゆくじ)という寺にしている。この寺の南東に建てられた芸亭(うんてい)は,儒教の典籍を収蔵し,好学の徒に開放したもので,日本最初の公開図書館として名高い。平安初期に文人として名を成した賀陽豊年(かやのとよとし)は,ここで学んだ。宅嗣には《三蔵讃頌》という著作があり,唐に伝えられて唐僧称賛をうけたというが,現存しない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石上宅嗣」の意味・わかりやすい解説

石上宅嗣
いそのかみのやかつぐ

[生]天平1(729)
[没]天応1(781).6.24. 奈良
奈良時代の高官,文人。左大臣麻呂の孫。中納言乙麻呂の子。天平勝宝3 (751) 年従五位下。天平宝字1 (757) 年従五位上,相模守。同3年三河守。同5年上総守,遣唐副使。同7年文部大輔。同8年大宰少弐,正五位上,常陸守。この頃,藤原良継,大伴家持,佐伯今毛人らとともに藤原仲麻呂を除こうとして発覚,良継1人が責めを負い,ほかは罪を免れてのち復官した。天平神護1 (765) 年従四位下,近衛中将。同2年参議,正四位下。神護景雲2 (768) 年従三位。この頃式部卿。宝亀1 (770) 年称徳天皇が崩じ,藤原永手らとともに光仁天皇擁立に力を尽す。功により大宰帥。同2年式部卿,中納言。同6年物部朝臣の姓を賜わる。同8年中務卿。同 10年宣勅使として唐使をもてなす。同年石上大朝臣の姓を賜わる。この頃皇太子補佐。同 11年大納言。天応1 (781) 年正三位。同年薨じ贈正二位。法名は梵行。彼は経史を好んで渉覧し,詩文に秀で,草隷に巧みであったという。淡海三船とともに文人の首 (第一人者) として名声が高かった。その詩賦の一部は『経国集』に収められている。晩年は仏教に心を傾け,自宅を阿 閦寺 (あしゅくじ) として寺に造り直し,内外両門は本来一体であるとの考えに基づき,その寺内に特に外典 (げてん) の院を設け,ここに所蔵の儒書を集めて芸亭 (うんてい) と名づけ,好学の徒に公開した。これは日本で最初の図書館といわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石上宅嗣」の意味・わかりやすい解説

石上宅嗣
いそのかみのやかつぐ
(729―781)

奈良時代後期の官吏、文人。中納言(ちゅうなごん)乙麻呂(おとまろ)の子。751年(天平勝宝3)従(じゅ)五位下(げ)を授けられ地方官を歴任、761年(天平宝字5)遣唐使となったが翌年やめさせられている。その翌年、藤原良継(よしつぐ)、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、大伴家持(おおとものやかもち)らと謀って藤原仲麻呂(なかまろ)を除こうとして発覚、良継が1人責任をとったが、宅嗣も大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷された。その後、参議、大宰帥(そち)、式部卿(きょう)、中納言、皇太子傅(ふ)の要職を歴任、大納言正三位(さんみ)に上り、死後正二位を贈られた。

 伝に、性朗悟で姿儀あり、経史を愛し、(書籍を)渉覧するところ多く、好んで文を属(つく)り、書は草隷(そうれい)に巧みで、風景山水にあうごとに筆をとってこれを題として文をつくり、宝字(ほうじ)(757~765)以後、淡海三船(おうみのみふね)とともに文人の首で、家を阿閦(あしゅく)寺とし、寺内に外典(がいてん)(仏教以外の書)の院を置き、芸亭(うんてい)と名づけ、好学の人に開放した、とある。

[横田健一]

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図書館情報学用語辞典 第5版 「石上宅嗣」の解説

石上宅嗣

729(天平1)-781(天応1).通説では日本最古の公開図書館とされている芸亭の設立者.中納言乙麻呂の子,物部朝臣と称する.757(天平宝字1)年相模守,その後地方官を歴任し761(天平宝字5)年遣唐副使に任ぜられるが直後に免ぜられる.763(天平宝字7)年(?)藤原仲麻呂を除く藤原良継らの企てに参画したが,良継が一人責めを負い宅嗣らは罪を免れた.後参議を兼ねて式部卿,光仁天皇擁立に参画.その後中務卿兼中納言となり,この頃皇太子傅,大納言に進み,死後に正二位を追贈される.詩賦をよくし,漢籍に関する知識が豊富で書にも優れ,淡海三船とともに文人の首といわれた.晩年その旧宅を捨てて阿寺とし,寺内の一隅に特に外典(仏書以外の書物)の院を設け,芸亭と名付けた.

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石上宅嗣」の解説

石上宅嗣
いそのかみのやかつぐ

729~781.6.24

奈良後期の公卿。物部朝臣(もののべのあそん)・石上大朝臣とも称した。父は乙麻呂(おとまろ),祖父は麻呂。761年(天平宝字5)遣唐副使に任じられたが,渡海することなく辞任。770年(宝亀元)称徳天皇の没時,参議として藤原永手(ながて)らとともに光仁(こうにん)天皇を擁立。中納言から大納言・正三位に進み,死後正二位を贈られた。文人として名高く,旧宅を阿閦(あしゅく)寺とし,一隅の書庫を亭(うんてい)と名づけ,おもに仏教経典以外の外典(げてん)を一般に公開した。日本最初の公開図書館という。

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百科事典マイペディア 「石上宅嗣」の意味・わかりやすい解説

石上宅嗣【いそのかみのやかつぐ】

奈良時代の貴族,文人。藤原仲麻呂を除こうとして失脚,のち復官し,780年大納言正三位(だいなごんしょうさんみ)。漢詩をよくし,その詩は《経国集(けいこくしゅう)》に見られる。また仏教に通じ,私宅を阿【しゅく】寺(あしゅくじ)という寺にして,内に芸亭(うんてい)を設け書籍を好学の徒に開放した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石上宅嗣」の解説

石上宅嗣 いそのかみの-やかつぐ

729-781 奈良時代の公卿(くぎょう)。
天平(てんぴょう)元年生まれ。石上乙麻呂(おとまろ)の子。各地の国守,文部大輔(たいふ)などをへて,天平神護2年参議,宝亀(ほうき)11年大納言にすすむ。詩文と書にすぐれ,「経国集」「万葉集」に詩歌がある。奈良の自邸を日本初の公開図書館「芸亭(うんてい)」とした。天応元年6月24日死去。53歳。正二位を追贈された。著作に「浄名経賛」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「石上宅嗣」の解説

石上宅嗣
いそのかみのやかつぐ

729〜781
奈良時代の貴族・文人
淡海三船 (おうみのみふね) と並び称された文人で,その詩は『経国集』に収められている。大伴家持らとともに藤原仲麻呂を除こうとして失敗,のち復官し大納言となった。晩年,芸亭 (うんてい) というわが国最初といわれる図書館を設置した。

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世界大百科事典(旧版)内の石上宅嗣の言及

【石上氏】より

…麻呂は,このあと左大臣にまですすみ,子の乙麻呂も中納言まですすむなど,8世紀前半の政界で活躍がめだった。この乙麻呂の子が,芸亭(うんてい)をつくったことで名高い石上宅嗣(やかつぐ)であるが,宅嗣は775年(宝亀6)朝廷に請うて物部朝臣と氏を旧に復すことを許された。しかし,彼は中納言・中務卿であった779年再び物部朝臣を改め石上大朝臣の氏姓を与えられた。…

【芸亭】より

…奈良時代末に有名な文人の大納言石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が設けた書庫。日本最初の公開図書館とされる。…

【図書館】より

…このような気運のもとで,多くの図書を集め多くの人の閲覧に供するという狭義での図書館も誕生することになった。聖徳太子の夢殿,大宝令の規定に見える中務(なかつかさ)省の図書(ずしよ)寮,東大寺など大寺に付設された経蔵,さらには吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)など知識人の私的な文庫も広義の図書館と考えることができるが,一般には石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が奈良の地において,私邸に阿閦(あしゆく)寺を建立し,その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設け公開したものが日本における公開図書館の発祥とされる(8世紀後半)。また,菅原道真はその書斎文庫の紅梅殿(こうばいどの)を他人にも公開したといわれる。…

※「石上宅嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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