石井郷
いしいごう
「豊後国風土記」や「和名抄」にみえる郷。「豊後国風土記」では郡家の南方に位置したとする。地名の由来は「豊後国風土記」に「昔、この村に土蜘蛛の堡あり。石を用いず、土をもって築く。これに因って名を無石の堡という。のちの人、石井の郷と謂は誤れるなり」としている。また同風土記には「郷の中に河あり、名を阿蘇川という。その源は肥後国阿蘇郡少国の峯より出で、流れてこの郷に到る。すなわち球珠川に通じ、会いて一つの川と為り、名づけて日田川という。
石井郷
いしいごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「石井」と記し、訓を欠く。東は吉井郷、西は神戸郷、南は浮穴郡井門郷、北は天山郷に接する。天平勝宝二年(七五〇)四月七日付の写書所解(正倉院文書)の記載によれば「田部直五百依 年廿八伊与国久米郡石井郷戸主田部直足国戸口」とあり、石井郷に田部足国が一戸を構成していたことがわかる。
中世に入り、河野通信は承久の乱に後鳥羽上皇側に応じたため、多くの所領を没収された。
石井郷
いしいごう
「和名抄」所載の郷。同書東急本に「以之井」と訓じる。郷域について「日本地理志料」は石井は石堰の意で清泉を出す地を意味するとし、越木岩村に甑巌があり、隣の越水は小清水と解されることから、越水・越木岩・西宮・芝・高木・上大市・下大市・門戸・段上の諸邑の現西宮市南東部を郷域と比定する。これに対し「大日本地名辞書」は良元村(明治二二年成立)としている。
石井郷
いわいごう
「和名抄」所載の郷で、高山寺本は以波為、東急本では伊波井の訓を付す。「大日本地名辞書」は現富山町岩井から鋸南町岩井袋にかけて、「日本地理志料」はさらに北側の鋸南町勝山・竜島の海岸地域にかけての一帯にそれぞれ比定している。中世には安房国岩井不入計など、近世には北郡岩井袋村などとみえる。岩井川下流域の富山町久枝の低地に五世紀中頃の恩田原古墳群、高崎川の南の丘陵斜面に冷水・大谷・岩婦・鬼ヶ谷横穴群など五群一三基の横穴群、鋸南町岩井袋から竜島にかけての海岸辺りに大黒山・岩井袋・板井ヶ谷・大乗院横穴群など九群六三基の横穴群があり、岩井川から高崎川流域の低地には古墳時代から奈良・平安時代の集落遺跡が数多く所在している。
石井郷
いしいごう
「和名抄」高山寺本に記載なく、刊本にも訓を欠く。天平二〇年(七四八)四月二五日造寺所公文(正倉院文書)に「茨田連兄万呂、年廿三、労三年、山背国紀伊郡堅井郷戸主布勢君家万呂戸口」とあり、従って石井は「いわい」とよまれたかとも思われる。また治承四年(一一八〇)の藤原氏女田地売券(東寺百合文書)に、
<資料は省略されています>
とある。
石井郷
いわいごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。同書高山寺本では巨濃郡に記されるが、東急本では法美郡に含まれる。しかし中世以降の法美郡内で郷域を比定するのは難しい。現国府町中央部の袋川と上地川の合流点付近に比定する説(大日本地名辞書・鳥取県史)、袋川支流の大石川最上流の石井谷村(現国府町)付近とする説(因幡志)などがあるが、いずれも無理があり、中世岩井庄の中心部となった現岩美町の蒲生川下流域一帯に比定するのが妥当であろう。
石井郷
いわいごう
「和名抄」諸本ともに訓を欠くが、摂津国武庫郡の同名郷に「以之井」(東急本)、安房国平群郡の同名郷に「以波為」(高山寺本)・「伊波井」(東急本)の訓がある。位置は明確でない。「和名抄」の郷名の配列では最後に置かれているので、讃良郡の北端にあったかと思われる。
石井郷
いしいごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「石井」と記し、高山寺本のみ「以久井」と訓ずるが、久は之の誤りであろう。「日本地理志料」は「周布郡石井郷、領
大郷、楠窪、明河、千足山ノ四邑
」とする。
石井郷
いわいごう
「和名抄」高山寺本は「以波為」、東急本は「伊波井」と訓を付す。上野国分寺跡(現群馬郡群馬町)出土の文字瓦に「石井」「石」がみえる。現安中市岩井を遺名とみる。「日本地理志料」は郷域を現安中市東部の板鼻・中宿・野殿・大谷と現高崎市西端の鼻高町にわたる地とする。
石井郷
いわいごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。イシヰかイハヰであろうが、江戸時代の岩井村(現海上町)を遺称地として、これを含む一帯に比定する説がある。
石井郷
いわいごう
「和名抄」にみえるが訓を欠く。「下総旧事考」は「今岩井村アリ。是ナルベシ」として岩井村(現岩井市)に比定。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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