岩井村(読み)いわいむら

日本歴史地名大系 「岩井村」の解説

岩井村
いわいむら

[現在地名]岩井市岩井

東を菅生すがお沼上流、西を鵠戸くぐいど沼から派生するヤトで限られ、北と南は台地に続く。古くは片野かたの郷と称したと伝えられる。「和名抄」のさしま石井いわい郷で、平将門の本拠地の一つ。「将門記」に承平七年(九三七)のこととして「其ノ明日ノ早朝ヲ以テ、子春丸ト、彼ノ使者ト各々炭ヲ荷ヒテ、将門ガ石井ノ営所ニ到ル」「彼ノ介良兼、兼ネテ夜討ノ兵ヲ構ヘテ、同年十二月十四日ノ夕、石井ノ営所ニ発遣ス」、また「王城ヲ下総国ノ亭南ニ建ツベシ」などとみえ、「扶桑略記」天慶二年(九三九)一二月一五日条には「又定可建王城之処、下総国猿嶋郡石井郷亭南可為都朝」とある。また「将門記」に天慶三年二月のこととして

<資料は省略されています>

とみえる将門終焉の地、北山きたやま国王こくおう神社の北方や大字辺田へたなどに比定する説がある。


岩井村
いわいむら

[現在地名]竜王町岩井

田中たなか村の東、日野川左岸の平野部に位置し、東は同川支流法教寺ほうきようじ川を境に葛巻かずらまき(現蒲生町)。正長元年(一四二八)一二月一三日の荒牧諸散在年貢引付帳(左右神社文書)によれば、岩井助四郎が久時名三分一の一町八反半などの年貢を請負っている。明応四年(一四九五)一〇月吉日の日吉庚申灯油米納帳(同文書)には「岩井小村衛門」などの名がみえる。綾戸あやど苗村なむら神社の護摩堂棟札によれば、享禄四年(一五三一)の同堂再建造立に関与した「泉蔵」は「岩井之者」であった。

天正一九年(一五九一)豊臣秀吉は「いはい村」五五八石余などを伊勢津城主富田知信に与えている(同年四月二六日「知行目録」富田文書)


岩井村
いわいむら

[現在地名]海上町岩井

大間手おおまて村の北にあり、西に椿つばき新田が広がる。現旭市長禅ちようぜん寺蔵愛染明王坐像の永禄一二年(一五六九)胎内銘に岩井六郎衛門息とみえる。慶長一七年(一六一二)の海上郡岩井村検地帳(三冊、渡辺家文書)によれば、田一六町三反余・畑屋敷五町三反余(うち屋敷三反四畝余)、永荒田畑七町四反余、草高一九〇石余、名請人五二。寛永一二年(一六三五)の松平氏の加増分に含まれ、その領知書上(宮内家文書)に村名がみえ、先高二〇三石余・高一七四石余。元禄一三年(一七〇〇)御林跡の新畑検地により一六町二反余を打出しており(渡辺家文書)、この頃の下総国各村級分では高一八六石余で、幕府領


岩井村
いわいむら

[現在地名]中野市大字岩井

東はお天上てんじよう山とじようみね等で木島きじま村と境し、西は千曲川をもって水内みのち静間しずま村、南は高社こうしや山麓及び鳴沢なるさわ山等の山山で田上たがみ村と接し、北は横吹よこぶき山をもって木島村と境している。村名は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳では「岩井」、同九年の信州四郡草山年貢帳では「祝」と記されている。土地の人は、村名の起りは岩間の清水、岩井氏の居館、諏訪神社(産土神)の祝によるという。

初見は天文二一年(一五五二)一二月一九日領主高梨政頼が上洛のため、高井郡七ヵ村中に「在京百日之夫」を課した某夫役注文案(高梨文書)で、「岩井一人、夫銭なれば五貫文」とみえ、翌二二年閏正月二七日の「石山本願寺日記」の証如上人日記の条に次のように記されている。


岩井村
いわいむら

[現在地名]磐田市岩井

村の北、太田おおた川中流右岸沿いの沖積平野および磐田原台地東縁に位置する。山名やまな郡に属する。応永三年(一三九六)一〇月二〇日の今川貞世書下(本間文書)に山名庄東方として「岩井郷」がみえ、譲状の旨に任せ庶子分共に本間楠犬丸に安堵された。その後本間氏に伝えられたとも考えられ、寛正二年(一四六一)八月一八日の本間久季紛失状(同文書)には、長禄三年(一四五九)八月に高部慈恩たかべじおん(現袋井市)で紛失した重書のうちに岩井郷証文が記されている。なお貞和二年(一三四六)一二月一七日の足利直義下知状(小早川文書)によれば、建武四年(一三三七)小早川奉平が恩賞として「遠江国岩井社」地頭職を与えられたとあるが、当地との関係は不明。


岩井村
いわいむら

[現在地名]吾妻町岩井

植栗うえぐり村の西にあり、北端を東流する吾妻川に近い辺りは中之条なかのじよう盆地の南限で耕地となっている。万治二年(一六五九)沼田藩領分書上写によると高三一四石余。寛文郷帳では田方一一九石余・畑方一九五石余。寛文三年(一六六三)沼田藩領新検地控では一千四二五石余で、うち一五七石余が富沢外記、二九四石余が大館安太夫、八四石余が朝比奈治部右衛門、一四六石二斗が中島斎宮の給分。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では七三七石余、元禄郷帳では幕府領。江戸後期の御改革組合村高帳によると旗本保科領で家数一一三。


岩井村
いわいむら

[現在地名]安中市岩井

碓氷うすい川を隔てて板鼻いたはな宿の南にある。碓氷川に近い段丘上に古墳時代の竪穴式石室を有する古墳があるほか、丘陵上には小円墳が散在しており、平安時代の住居跡もある。古代碓氷郡石井いわい(和名抄)の地。上野国分寺跡(現群馬郡群馬町)から出土した瓦数点に「石井」の篦書がある。

慶長六年(一六〇一)の検地帳(中島文書)によると、このときの検地は真田左太夫ほか三名が担当した。明暦元年(一六五五)の免定(同文書)では安中藩領で、田畑計五六町二反余、うち田方二四町七反余・畑方三一町四反余。


岩井村
いわいむら

[現在地名]豊岡市岩井

戸牧とべら高屋たかや上陰かみかげ三ヵ村の西に位置し、北は宮井みやい村、西は吉井よしい村・大谷おおたに村、南は気多けた上佐野かみさの村など。奈佐なさ川の支流岩井川が流れる。江戸時代の領主の変遷は栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二三三石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。明和九年(一七七二)村明細帳(今井家文書)でも同高で、うち一〇石余は「前々無地荒」、残り二二三石余の内訳は田高二〇六石余・一〇町六反余、畑高一六石余・三町余。ほかに屋敷高五石余・五反余と新田高一六石余・二町二反余がある。


岩井村
いわいむら

[現在地名]吉井町岩井

小暮こぐれ村の東、北は緑野みどの山名やまな(現高崎市)と接し、南は同郡三木みつぎ(現藤岡市)かぶら川で境する。康応元年(一三八九)八月一六日の大石重能打渡状(明王院文書)で鎌倉明王みようおう院に返還された浄法寺九郎入道跡の三ヵ所に岩井があり、応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実は、長谷河山城守の押妨から同院領として安堵している(「関東管領家奉行人連署奉書」同文書)


岩井村
いわいむら

[現在地名]沼南町岩井

箕輪みのわ村の東、手賀てが沼の南岸にあり、東は鷲野谷わしのや村。村の中央屋敷やしきに鎮守将門まさかど神社が鎮座する。寛永二年(一六二五)本多正貫の領知目録写に「岩井村百三石二斗」とみえ、旗本本多領。正徳三年(一七一三)幕府領となるまでの領主の変遷は箕輪村に同じ。享保二年(一七一七)旗本加納久通が相馬そうま郡で一千石を加増された際、同領になったと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)


岩井村
いわいむら

[現在地名]睦沢町岩井

小滝こだき村の南に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千四六二石。正保国絵図では高一千四五〇石であるが、延宝七年(一六七九)の市之庄大多喜領岩井村検地帳(河野家文書)では四三町七反余・高四四八石余とあり、この間分郷があったと考えられる。元禄郷帳では高四九九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高五〇二石余で家数六六、旗本森川・福島の相給。慶応二年(一八六六)の下之郷組合村々書上帳(下之郷区有文書)によれば森川領四四五石余・福島領五三石余で、家数五七・人数二八六。みやまえ鵜羽うば神社は九世紀に玉前たまさき神社(現一宮町)の創建に伴い祀られたという玉前六社の一つで、鵜羽大明神縁起によれば、当地は一之いちのいわい郷と称した。


岩井村
いわいむら

[現在地名]高山市岩井町

大島おおじま村から大八賀だいはちが川の上流岩井川を北東にさかのぼった水源地帯に位置する。集落は川沿いの中曾洞なかぞほら本洞ほんぼらなどにあり、全体に傾斜地をなし畑が多い。川沿いの山麓に縄文遺跡が一〇以上ある。縄文時代の東寺ひがしてら遺跡では埋甕をもつ五基の竪穴住居跡が検出され、また新潟県ひめ川産と考えられる硬玉製大珠と土偶・石冠などが発見された。


岩井村
いわいむら

[現在地名]岐阜市岩井・岩井花本いわいはなもと岩井万場いわいまんば

加野かの村の北西に位置する。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」にみえる「三貫文(中略)山県左近将監殿濃州井 郷段銭」は当地のこととする説があるがつまびらかではない。また永正七年(一五一〇)一二月一九日の太田郷賀茂社領年貢米注文案(大仙寺文書)に「六斗 岩井 此内五升 不作」とあるのも当地かどうか不明。初め加藤貞泰(黒野藩)領であったとみられるが、慶長一五年(一六一〇)奥平忠隆(加納藩)領となる。同藩の知行渡方帳(森文書)によれば家臣一一名の給地であった。慶長郷帳に村名がみえ、高三七三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では引続き奥平領であるが、寛永九年(一六三二)同氏の断絶に伴い幕府領となる。


岩井村
いわいむら

[現在地名]足利市岩井町

渡良瀬川左岸に位置し、西南端に岩井山がある。東端部をふくろ川が南流し、東は勧濃かんのう村。もと渡良瀬川古川跡と思われる字宮の前みやのまえ(旧字十念寺)に村落をなしていたが、水害のために岩井山東部の当地に移住したという(地誌取調)。長禄三年(一四五九)一二月日の高師長本領目録(古文書集)に足利庄内「岩井郷」とみえる。慶長一一年(一六〇六)風祭・堀江両氏により検地が行われ、高五〇石余とされたと伝える。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利房領となる。慶安郷帳では畑高五〇石余。元禄郷帳では幕府領、元禄一五年(一七〇二)頃より旗本神谷領。


岩井村
いわいむら

[現在地名]袖ケ浦市岩井・のぞみ

かつ村の東に位置する。寛永八年(一七三一)知行宛行状に村名がみえ、当村一四七石余などが旗本久保田(窪田)領となった。正保国絵図では高四〇八石余、元禄郷帳では高四一七石余。享保五年(一七二〇)当時は窪田氏および旗本斎藤・原・中村の四家領(島村家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数六〇、旗本四家領のほかは幕府領で、幕末まで変わらない(天保一一年望陀郡戸口録など)。慶応二年(一八六六)の家数六七・人数二六七(鳥飼家文書)


岩井村
いわいむら

[現在地名]藤崎町藤崎 松野木まつのき

岩木川中流右岸に位置し、東は根子橋ねこばし村、東北は林崎はやしざき村、南は藤崎村、北は飯田いいだ(現北津軽郡板柳町)に接する。

天和四年(一六八四)の藤崎村絵図(市立弘前図書館蔵)に藤崎村の「枝村松ノ木村」とある。「平山日記」貞享四年(一六八七)に「松ノ木ハ岩井ト成」とあり、同年の検地帳に藤崎村支村岩井村の田方一〇町二反五畝二〇歩、畑方七町九反一畝二二歩、田畑屋敷合せて一八町一反七畝一二歩、村高一二五・〇九八石とある。


岩井村
いわいむら

[現在地名]福知山市字岩井

福知山城下の西北、和久わく川の下流左岸に位置し、東は荒河あらが村、西は奥野部おくのべ村に接する。村の中央の丘陵を城山しろやまと称しているが、城主その他については伝えもない。村の西南端和久川に臨む所、丘陵上に中世の館跡があり、空堀と土居を巡らした所があったが、昭和三八年(一九六三)破壊された。

中世は和久庄の地。江戸時代の岩井村については「丹波志」に高三七七石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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