石塚村(読み)いしづかむら

日本歴史地名大系 「石塚村」の解説

石塚村
いしづかむら

[現在地名]阿南市富岡町とみおかちよう

富岡町の南に位置し、北東流する桑野くわの(岡川)右岸に立地する。北は同川を隔て横見よこみ柳島やなぎしま両村。賀嶋家系図(賀島家文書)に載る天正一六年(一五八八)の「石塚村之内牛岐之城下」、慶長二年(一五九七)の分限帳にみえる「城廻」、同九年の那東郡之内牛岐庄石塚村検地帳(文政八年写、阿南市役所文書)の存在などから近世初期は石塚村の一部に城下町・郷町の富岡町が存在した。その後、正保国絵図では石塚村を富岡町の内とし、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では石塚村を枝村と記載する一方、文化一二年(一八一五)編纂の「阿波志」は富岡町を石塚村に隷するとするように石塚村と富岡町の関係は資料によってまちまちであるが、全体としては石塚村に包括されていた富岡町が郷町として繁栄するにつれて分離・独立化の道をたどり、農村部の石塚村を枝村として扱うようになったと考えられる。

慶長二年の分限帳に細山主水佐(のち賀島主水正政慶と改称)の知行分としてみえる城廻五二四石余に含まれる。同九年の前掲検地帳では高五二六石余、田方二九町六反余、畑方・居屋敷二一町三反余。慶長期のものと推定される国絵図には「石つか」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「いし塚村」と記される。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]出雲市大津町おおつちよう

斐伊川左岸の平地にあり、東は朝倉あさくら村、西は大塚おおつか村。中世には石墓とも記された。建暦三年(一二一三)八月二一日の縫殿允清澄奉書(北島家文書)に「御領郷々浦々以下事(中略)於出西郷・同富・高墓・石墓村并稲岡郷者、本自為別納之地」とみえる。墓は塚と同義語で、「つか」とも読む。平安時代後期に杵築へ移住した国造出雲氏は出西しゆつさいとび高墓たかつか稲岡いなおかなど斐伊川周辺の開発を進めたが、当村もそのうちの一つ。康元元年(一二五六)一二月日の杵築大社領注進状(同文書)に「一 石墓村参町伍段、除、神田壱段、寺田大」とある。その後当村は拡大していったと思われ、南北町期以降は石塚郷または石塚村とよばれるようになる。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]湯沢市石塚

作内さくない川支流に沿い、松岡まつおかから南へ一〇町の山間の村。東は山田やまだ村、南は小野おの村(現雄勝おがち郡雄勝町)、西と北は松岡村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には石塚新田七九石、石塚の内切畑とあり、享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)では「正保・元禄誤新田出」とある。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では高は本田八七石五斗七升二合、新田五七石八斗七升、計一四五石四斗四升二合(当高一三五石二斗四升一合)


石塚村
いしづかむら

[現在地名]佐野市石塚町

はた川の左岸に位置し、西は赤見あかみ村。元亨元年(一三二一)九月一八日の佐野増綱・藤原義綱和与状案(小曾戸文書)佐野庄「石塚郷」とみえ、郷内の平三郎入道跡の在家および田をめぐって徳野定重と佐野義綱とが争っており、幕府の裁許の結果、在家の三分の一、田一反の得分一一貫、作人平六・因幡房を義綱が受取り、残り三分の二を九ヵ年定重が知行することとなった。文和四年(一三五五)四月八日の足利義詮御判御教書案(佐々木文書)によれば、佐々木導誉(道誉)の代官珍阿が佐野越前守(師綱)らによる「石塚郷内荒居村」などの押領狼藉を訴えており、幕府は関東公方足利基氏に押領狼藉を停止して導誉の知行に帰すことを命じている。


石塚村
いしつかむら

[現在地名]常北町石塚

水戸から宇都宮へ通ずる街道に沿う街村。東に那珂川を望む標高約四〇メートルの台地の北端に位置する。東は上泉かみいずみ村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「石塚次郎宗義分 那珂西 石塚郷」とみえ、以後近世初頭まで佐竹支族の石塚氏の本拠地であった。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「いし塚」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「石塚村」とみえる。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]五個荘町石塚

中山道の北西側にあり、南東は山本やまもと村、北西は川並かわなみ村。村名はかぶと山とよばれた古墳に由来するといわれる。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)建部たけべと注記して村名がみえ、高二六一石余。慶長高辻帳では二七〇石余、うち小物成一斗余。領主の変遷は七里しちり村と同じ。明治六年(一八七三)の地券図(石塚区有)では、集落は中山道沿いに街村形態をなしているが、もとこの地域は南町屋みなみまちやとよばれた当村の出村であった。当村産土神八幡神社の文化三年(一八〇六)の鐘銘に「南町屋村・石塚村」とあり、天保九年(一八三八)の郡山藩巡見絵図(金堂区有)にも当該地域は「石塚出町」と記される。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]高岡市石塚

祖父そふ川右岸に位置し、南はつじ村、西は六家ろつけ村。村名は庚申を祀った大きな塚があることによるという。福田ふくだ七村の一。中世は吉積よしづみ庄のうち。「師守記」貞治五年(一三六六)一一月七日条に「今日越中国石塚・西吉江預所職事」とみえ、当村預所として若林卿房覚増が任ぜられている。戦国期、刀工石塚真長が居住していたといわれ、文亀元年(一五〇一)八月日銘の「越州住石塚真長」と刻まれた刀剣が現存する。元和五年(一六一九)の家高新帳では福田組に属し、役家数六。正保郷帳では高五〇〇石余、田方三二町三反余・畑方一町余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高五二七石・免四ツ五歩。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]深谷市石塚

利根川右岸の自然堤防上にあり、北を小山こやま川、南を備前渠びぜんきよ用水が東流する。西は榛沢はんざわ高島たかしま村、北は小山川を境に上野国新田につた前小屋まえごや(現群馬県尾島町)。深谷領に所属(風土記稿)。中世には上野国新田庄に含まれており、年未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(正木文書)に「石塚村」とみえ、新田岩松氏の支配が及んでいた。永禄三年(一五六〇)四月、深谷上杉憲賢と上野金山かなやま(現群馬県太田市)城主横瀬成繁は所領争いから幡羅はら郡石塚郷で激戦を交えている(「新田家御軍記写」石塚稲荷神社文書)


石塚村
いしづかむら

[現在地名]いわき市石塚町

しぶ川流域左岸にあり、南は東坂あずまざか村・塩田しおた村、北は添野そえの村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高一五七石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に石塚之村とみえ、高二二九石余。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]新井市石塚・石塚町一―二丁目

新井村の北、北国街道沿いの村。一里塚がある。正保国絵図に高二六五石余とある。天和三年郷帳に高二二八石八斗余、うち漆高九升とあり、ほかに新田高二一石三斗余がある。昔から石屋の多い所として知られ、原石は籠町かごまち村南方の千種石を使っている。中川なかがわとの境近くに真宗大谷派の白鳥山康源こうげん寺がある。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]倉吉市石塚

上古川かみふるかわ村の南西、天神野てんじんの台地の麓に位置する。天正九年(一五八一)一二月六日の南条元続感状(山田家文書)によると山田畔助に対して「小鴨石塚分百石之内ニて五拾石」などが新給として与えられている。藩政期の拝領高は一九五石余、本免は五ツ一分。山脇氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二五〇石余、竈数一六。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]市原市石塚

菅野すげの村の南方に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三九石。正保国絵図では高二九石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名があり、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。以後の支配領主の変遷は飯給いたぶ村と同様。元禄郷帳では高二五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一〇四石余、家数三三。もと蔵王権現と称した白鳥しらとり神社は源頼朝が夢告により創建を試み、その夫人が遺命を受けて勧請がなったという。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]鹿島町久乃木くのぎ

石動せきどう山麓の二宮にのみや川支流石塚川の上流部に位置し、東は久乃木村。地名は梵字彫刻の大石の塚があることによるという。寛永四年(一六二七)から二ヵ年新開検地があり、同四年の検地高は二石九斗余、同五年の検地高二石五斗余(「検地打渡状」久乃木区有文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(同文書)の高一五石、免四ツ、小物成として鳥役一匁(出来)


石塚村
いしづかむら

[現在地名]諸富町大字為重ためしげ字石塚

筑後川に面し、諸富津もろどみつの南に位置する。正保絵図に村名がみえる。

村には国境番所が置かれていた。当村は筑後川を隔てて若津わかつ(現福岡県大川市)と相対し、筑後から佐賀に入る交通の要地で、石塚・寺井てらい三重みえ水町みずまちがその道筋にあたっていた。


石塚村
いしづかむら

[現在地名]春江町石塚

布施田新ふせだしん村の東に位置し、集落は九頭竜くずりゆう川の支流磯部いそべ川の北岸にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では江留えとみ庄に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一千六二石・畠方一九〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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